教会の闇に『スポットライト』が当たる

2016年9月21日水曜日

教会の「健康」 雑記

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■教会の隠蔽工作を暴いた映画『スポットライト』

 2015年のアメリカ映画、『スポットライト』は、クリスチャンが観るべき映画の1つだと思う。「教会」のあり方について、きっと考えさせられる。

 アメリカ、ボストンの新聞社「ボストン・グローブ」が2001年、地元のカトリック教会の司祭たちによる児童への性的虐待の、恐るべき実態を暴いた。最初の記事で90人近い司祭たちが告発され、続報で3桁に上る司祭たちが告発されるに至った。また記事は単に司祭たちの虐待を明るみにしただけでなく、教会による組織ぐるみの隠蔽工作をも明らかにした。泣き寝入りしていたおびただしい数の被害者たちが、それをキッカケに次々と声を上げはじめた。そしてこれがボストンのみならず、またアメリカのみならず、世界各地でずっと起きてきた事態であることを、明るみにした。

 映画はこの新聞社の記者たちの地道な調査活動を追っている。当然ながら教会の反発にあい、警察や裁判所の塩対応に悩まされ、被害者たちの話を聞くにも(センシティブな問題ゆえ)難航する。それがそもそも「暴きづらい闇」であることを、全編を通じて私たちも体感させられる。

■教会による隠蔽方法

 それほどの数の虐待事件が起きているのに、なぜそれまで問題視されなかったのか。
 被害者が声を上げなかったのではない。もちろんショックが大きすぎて、声を出せなかった被害者も大勢いると思う。しかし被害を訴え出ても、結局事件として立件されてこなかった。教会があの手この手で、示談に持ち込んできたからだ。
 それはもう暗黙の了解みたいになっていて、司祭による虐待が発覚すると、司教がやってきて、被害者らの説得に当たる。被害者は子供だし、親は敬虔な信者なので、皆うまく丸め込まれてしまう。警察訴え出ても「どうせ示談になるから」とまともに対応してもらえない(警察が慣れるくらい、そういうケースが多いということ)

 冒頭、司祭に子供をレイプされたという親が警察署にくるのだけれど、結局その司祭は逮捕されず、司教に連れられて帰っていく。取材にきた地方の新聞記者はなぜか地方検事に追い払われる。それを見ていた若い警官が「裁判にならないんですか」みたいなことを言うんだけど、べつの警官が一言。「ならないさ」

 何故そうなってしまうのかは、被害者の立場に立って想像してみれば、見えてくるかもしれない。被害者は児童だから、多くの場合その親が、教会から多分こんなふうに言われる。

・あの司祭は教会で厳重に処分し、別の教区に異動させる。もうこのようなことは二度と起こさせない。
・問題はあの司祭個人だから、騒ぎ立てて教会全体の活動に悪影響を与えてほしくない。教会はこの地域を支えているんだ。

・また被害を受けた子のためにも、傷をほじくり返すようなことはすべきでない。これを公にしたら子供がもっと傷つくだろう。

・だからここは教会と示談し、穏便に済ませてほしい。

 おそらくこれに近い話になると思う。
 こうして教会という「組織」のために、「個」が犠牲になっていく。「個」のために「組織」があるはずなのに、また「個」が集まって「組織」となっているのに、その「個」が「組織」によって虐げられ、無視され、片隅に追いやられていく。

■プロテスタントでも同様のことが起こる

 しかしこれはカトリックだけの話でなく、プロテスタントにも当てはまる。というか上記のような理屈だけ見れば、両者に違いはない。まったく同じ理屈で同じような虐待が起こる。

 日本のプロテスタントで言えば、2005年の聖神中央教会で起きた暴行事件が有名だ。主管牧師だった永田保が「信仰の従順をためす」などの口実で、牧師室で複数の信徒女児(成人女性もいた)に性的暴行をくわえたという事件。2006年に有罪が確定し、永田には実刑判決が出た。

 これも上記のカトリックの虐待事件とまったく同じ構造を持っている。
 被害者にとって加害者(司牧)は神のような存在であり、その言葉は常に正しく、神聖なものに思える。とても逆らうことができない。また被害に遭った後も「口外すると悪いことが起こる」と事実上の脅迫を受けるし、羞恥心も働くから、誰にも相談できない。被害者は孤立状態となり、更なる被害に遭い続けることになる。

 こういう被害が起こりやすい環境として、被害者と司牧が長時間2人きりになる状況がある。泊りがけの教会活動や、「特別な訓練」と称して外部から遮断された環境、司牧との個人的な親密さ、あるいは「ミッション」のために司牧と2人で出掛ける羽目になる状況など。通常の礼拝(あるいはミサ)に参加し、短時間の教会活動に皆で参加するだけとは、状況が全然ちがう。
 また被害者が子供である場合は、親が把握できない「司牧と子供の関係」もあるだろう。親御さんたちは教会や司牧をあまり過信せず、十分に注意してほしいと思う。結局のところ司牧も1人の人間に過ぎないのだから。

■司牧に本当に必要な資質

 教会や司牧を疑ってかかれ、というのも嫌な話だけれど、少なくとも信じすぎてはいけないと私は思う。尊敬し経緯を払うのは当然の礼儀だけれど、礼儀以上のことをする必要はない。また礼儀を重んじなければならないのは司牧に対してだけではない。司牧だからといって特別に扱うべきではない。むしろ相手が司牧である以上、常人より厳しい吟味の目を向けるべきだろう。

  たとえば医者にかかるとき、あまりにもおかしな説明だったり変な処置だったりしたら、不安になって診療を拒否するだろう。またマッサージ師が全裸になれとか言ってきたら拒否するはずだし、必要なら警察に行くことになるだろう。それと同じような意味合いで、司牧には司牧にふさわしい振る舞いがある。それに外れるようであれば、はっきりと指摘するべきだ。それは失礼でも何でもない。

 一例を挙げれば、良識ある司牧なら、異性の信徒と2人きりになるような状況はうまく(意識的に)避けるだろう。動機やニーズがどうであれ、結果的に誤解を与えるような行動は慎むことができる。そういうことを当然の配慮としてできるかどうかは、司牧の資質としてけっこう必要だと私は思う。聖書知識や説教のうまさ、場を盛り上げるスキルなんかよりも、ずっと。

■「主の導き」とは

 というわけで映画『スポットライト』は、教会の闇を暴きだした「正義」の新聞記者たちの地味な、しかしこのうえなく真摯な姿を描いた良作である。教会に熱心なクリスチャンの方々にはぜひ観てほしい。

 また普段から「主よ導いて下さい」と何かの一つ覚えのように呟く人たちには、この映画が「主の導き」とは何かを学ぶ良い機会になるだろう。すなわち「主の導き」とは、名もなき新聞記者たち、とくに信仰熱心でもなく毎週教会にも通ってない人たちを通して、教会の不正を正すようなことを言うのだと。

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