良い指導をしてあげた「つもり」という教会の風景

2016年9月1日木曜日

教会生活あれこれ

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■「弟子訓練」の問題と現状

「弟子訓練」を取り入れている教会では、信徒は必ずと言っていいほど「弟子をつくれ」と言われる。だから皆、新来者に敏感になる。新来者が教会に入ってくると、年齢、性別、職業などでほぼ瞬間的にカテゴライズし、自分の弟子になりえる人かどうか、判断する。そして弟子になりそうだと、「特別な接触」をはじめる。そうでないならほとんど関心を払わず、あるいは挨拶程度の付き合いになる。

 弟子訓練というスタイルそのものは、善でもなければ悪でもない。場合によっては良い効果もあると思う。親身になってもらえることで精神的に助けられる人もいるかもしれない。しかし現場レベルでは、悪い話ばかり聞く。

 現在一部の教会で実施されている「弟子訓練」の問題点は、大雑把に挙げて3つある。

①(新来者からすると)一方的に師弟関係に入れられてしまう

 教会について何も知らない新来者に、いきなり「弟子」とか「師」とかいう言葉は使わない。けれど先輩信徒ははじめから、相手を「弟子候補」として見ている。新来者の方は当然そういう意識がないから、単に「いろいろ教えてくれる親切な人」くらいに思っている。しかしすでに師弟関係ははじまっていて、そのへんの意識のズレは小さくない。「弟子」の方は大概あとからそれを知るけれど、知ったときは既に遅い。それは多くの場合、いつのまにか逆らえない師弟関係になっていて、弟子の方には自由意思も自由選択も(はじめから)存在しない。

②師個人の見解に左右される

 信仰生活について師が弟子に教えるので、その師個人の見解が、色濃く弟子に伝えられる。それが偏っていると、弟子の信仰観も偏ったものになる。たとえば「毎日教会員全員の名前を挙げて1時間祈る」みたいな日課を実践している人がたまにいて、それはそれですごい労力でご苦労様なんだけど、同じことを弟子に求めたり事実上の強要をしたり、というのを見たことがある。弟子の方はたまらない。

③極端な従順を求められる(反論できない)

 これはその牧師のやり方が影響するけれど、弟子訓練教会は、とにかく弟子は師に逆らってはいけない、という空気になりやすい。師は信仰生活が長いのだから、間違ったことを言わず、いつも正しい、でも弟子はイロイロ未熟で間違える、だから黙って従え、みたいな感じ。だから弟子は反論したくてもできないし、したとしても聞き入れられない。むしろ叱られる。そして従順するか、あるいは教会を出ていくか、みたいな究極的な選択になりやすい。
「弟子訓練」は韓国由来だと思うけれど、これはたぶん儒教的精神が混じった結果だと思う。

 というわけで「弟子訓練」そのものに善悪はないとしても、現状として問題が大きいのは間違いなく、私はあまり賛成しない。どうしても関わらなればならないなら、浅い関わりにとどめることをお勧めする。

■良い指導をしてあげた「つもり」

 上記のような「弟子訓練」を導入していない一般的な教会でも、こういう師弟関係に近い状況になることがある。上記のように極端に一方的でなく、また極端に従順を求められることはなくても、けっこう「ものを言えない新来者」「ものを言えない目下の人間」「ものを言えない若者」みたいな人たちを作ってしまっている現状があると思う。

 それは教会の体制や牧師の方針や先輩信徒たちの態度などに主な原因がありそうだけれど、彼ら自身は、あまりそういうことを認識していない。だから問題なんだけど。

 で、よく見られるのが、「良い指導をしてあげたつもりが、全然そうでなかった」というケース。

 たとえばある「意識の高い」先輩信徒が、ある「元気のなさそうな」若者に目を留め、「集中的に関わってあげよう」みたいに思い立って、いろいろお世話しだす。毎日「励ましのメール」とか「聖書の言葉のメール」とか送り、事あるごとに「祈ってるからね」と声をかけ、頼まれもしないのに相談に乗り、あれこれ助言する。若者の方はメールに「ありがとうございます」とか「励まされます」とか「やっぱり神様は〇〇ですよね」とか返事して、助言に対してありがたそうに頷き、嬉しそうな笑顔を見せる。先輩は「だんだん元気が出てきた。関わった甲斐があった」みたいに思う。相手が助言に素直に耳を傾け、お礼を言うものだから、「助けてあげられた」と信じている。

 でも蓋を開けると全然そんなことなくて、若者の方は友人や家族に、「あの人にいろいろされて迷惑している」みたいなことを言っている。その言葉が巡り巡ってたまたまその先輩の耳に入り、そんな馬鹿なと思う。でもそうなると接しづらくなって、しだいに距離ができる。若者の方ははじめから求めていなかったから、早々に離れていく。

 では若者の嬉しそうな態度は嘘だったかと言うと、厳密に言うと嘘なんだけど、どちらかと言うとそれは若者なりの「防御策」だと思う。はっきり言って迷惑なんだけど、相手に悪気はなさそうだし、迷惑だとは言いづらいから、嬉しそうに笑っておく、お礼を言っておく、当たり障りのない対応をしておく、みたいなこと。でも先輩とか目上の人間とかは、そういうのがなかなかわからない。で自分のしたことを悉く「善」だと思っている。まあ良かれと思ってしたことだから、仕方ない部分はあるんだけど。

 そうなってしまう原因の1つは、教会内の人間関係の多くに対人援助的理解が必要なのに、対人援助について学ぶ機会がない、ということだと思う。友人どうしや家族間なら対人援助も何もないんだけど、そうでない関係(一方的に決められた師弟関係など)はまず互いの信頼関係の構築に時間をかけないといけなくて、いきなりいろいろ言うのは逆効果でしかないけれど、そういう理解がない。居酒屋で飲んだくれてるオヤジが隣の席の若者にいきなり説教垂れるのと同じで、迷惑でしかない。たとえは悪いけれど、それと同じようなことを教会でやっている牧師や先輩信徒たちがいる。

 対人援助技術の小難しい話を抜きにしても、目の前にいる相手が何を考えているか、どう感じているか、ということを想像してみるのはすごく大切なことで、人と接するうえでそれは専門知識ウンヌン以前の話だと思う。 だから人に助言する立場にある人は、良い指導をしてあげた「つもり」になっていないかどうか、時々考えてみることを私はお勧めする。

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