意外と身近な宗教差別

2016年8月5日金曜日

教会と地域社会

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 他の国の事情はともあれ、日本でクリスチャンをやっていると、時々困ることがあると思う。あるいは「困る」まで行かなくても、少し違和感を覚えるというか、なんとなくやりづらいというか、そういう若干の「居づらさ」を感じるのではないかと思う。

 私はその「居づらさ」を特に職場で感じることが多かった。仕事するうえで特別これと言った支障はないのだけれど、なんとなく、「居づらい」瞬間がある。たぶん人によっていろいろだろうけど。

 特に信仰熱心(?)だった頃、私は職場で「クリスチャンです」とハッキリ言っていた。そして食事前にちょこっとお祈りするとか、下品な話に入らないとか、激しく怒ってしまう自分自身に葛藤するとか、チャンスがあれば聖書の話をするとか(職場でするのは本当は違反なんだけど)、いかにも「真面目なクリスチャン」をやっていた。
 だから周囲も私をそういう目で見ていた。きっと「あいつはクリスチャンだから〇〇だ」みたいな話を、陰でいろいろしていたと思う。
 職場の人たちとは、いつも微妙な距離間があった。べつに関係が悪かったわけでなく、トラブルがあったわけでもない。普段から宗教的な話をしていたのでもない。むしろ表面的には楽しく話していた。けれど、自分の前に、見えない線が引かれているのが、折に触れてわかるのだった。

 もしかしたらそれは、彼らが引いた線というより、私が先に引いた線だったかもしれない。「クリスチャンです」と表明することが、もしかしたら「私はあなたたちとは違う」という若干上目線な(かつ一方的な)線引きとなっていたかもしれない。無意識的であったとしても。

 ともあれそういう「居づらさ」は、クリスチャンだけの話でなく、他のいろいろな宗教でも同じではないかと思う。たとえばその職場には「エホバの証人」の人もいたんだけど、やはり一線引かれた接し方をされていた。特にその人は熱心な方だったようで、専門用語を使って憚ることがなく、明らかに「住んでいる世界が違う」という感じだったから、ちょっと例外的かもしれないけれど。

■意外とある宗教差別

 最近になって、少し怖い話を聞いた。

 ある職場にて。
 そこの経営者は昔から創価学会の会員だった。そのせいか、職員にも創価学会の会員が何割かいた。しかし(当然ながら)勤務中の宗教行為などなく、勧誘等もなかった。経営者自身、会員であることを公にはしていなかった。だから形としてはあくまで「普通の職場」であり、経営者が個人的にある宗教に加入しているだけ、という体だった。ただ職員のうち2~3割程度が創価学会の会員だったから、その点ではあまり「普通」とは言い難い雰囲気だった。

 で、表向きには誰も何も宗教について話さない。けれど気にしていない人もいない。誰が学会員で、誰が一般人か、実はみんな(多少の差はあれ)気にしていた。目には見えないけれど一般人と学会員との間に線が引かれていて、それぞれ互いに踏み込まないようにしていた。何となく互いに目配せして、言葉にならないメッセージを伝え合っているような、暗黙の了解を確かめ合っているような、地雷を注意深く避けているような、そんな雰囲気があった。

 というわけで、そこの新入社員は遅かれ早かれ、必ずこう聞かれるのだった。
「あなた創価学会ですか?」

  で、私の知り合い(クリスチャン)が何も知らずにそこに就職した。そして案の定その質問をされ、その職場の実態を知ることになった。当然ながら彼は学会員ではないと答えたのだけれど、そのときこんな風に言われたという。

「あー良かった。学会だったら(あなたを)見る目が変わってたから」

 その「見る目が変わる」の意味は、明らかに、「彼にとっていろいろ不利になる」というニュアンスだった。彼がどんな人物か、どんな能力か、そんなこと関係なく、学会員なら扱いが変わるぞ、という意味だった。
 それを聞いて、彼は自分がクリスチャンであると言えなくなってしまった。それが創価学会だけの問題でなく、宗教全体に対する「差別」と感じたからだ。同じ職場で毎日顔を合わせるのだから、差別されたら大変なことになってしまう。

 その人はもしかしたら軽い気持ちで言ったのかもしれないけれど、これは残念ながら、宗教差別だと思う。

 ある宗教を信奉しているからという理由で、ある特定の(ネガティブな)レッテルが貼られる。こいつは○○教だから××な奴だ、と一方的に判断され、○○教という括りに落とし込まれてしまう。その中でいくら努力しても、根本的な評価は変わらない。

 もちろんこれは全ての職場で起こっている話でなく、全ての人が差別的なのでもない。その職場の特別な事情もあっただろう。でもこの「○○教だから・・・」という見方は、案外普通に存在している気がする。

■寛容? 無関心?

 日本人は宗教に寛容だという話をたまに聞くけれど、クリスチャンをやってきた私の印象は、ちょっと違う。

 たしかに宗教をやっているからと言って、あからさまに迫害されたり、不当な扱いをされたり、損害を被ったりしたことはない。その意味で「許容」されているのは間違いない。けれど(あくまで個人的経験として)、肯定的に受け入れられたり、歓迎されたりしたこともあまりない。「あーそうなんだね」と言いつつ、なんとなく相手の中でシャッターが閉まっているような、警戒されているような、そんな感覚を持つことの方が多い。もちろん友人はまた別だし、そうでなくても好感を持ってくれる人もいるけれど、相対的に、距離を置かれることの方が多いと思う。

 しかしこれはキリスト教だからまだ良いのかもしれない。もっと歴史の浅い新興宗教、たとえば幸福の科学とか立正佼成会とか霊友会とかだと、もうちょっと警戒されるのではないか。私自身、クリスチャンでなかったとしても、たぶんそれらの宗教団体にはまず猜疑心や警戒心を持つだろうし、適度な距離を置くと思う。

 だから日本人は宗教に寛容なのでなく、はじめからある程度、態度をハッキリさせていると思う。興味関心があれば好意的に受け入れるけど、そうでなければ受け入れない。反対したり迫害したりするわけではないけれど、「自分とは関係ない人」「理解できない人」ということで、それ以上関心を持たなくなる。つまり、無関心。

 で、関心を持つ人と持たない人とでは、たぶん後者の方が多いと思う。だから日本人は宗教に寛容なのでなく、無関心なのだと思う。もちろん私見だけれど。また日本では、仏教となるとまた事情が異なると思うけど。

■ポジティブであること

 最後にこの動画を紹介したい。

日常的に差別を受ける、イスラム教徒が最も恐れることとは?(動画)

 アメリカ、フィラデルフィアの大学で、日常的な差別に苦しんでいるムスリムの人たちを集めてインタビューを行ったものだ。主に、次期大統領選を背景にしている。べつに政治的意図は何もなくて、私が注目したのは最後の人の話。「最悪の状況によって、次のモハメド・アリやマルコムXが生まれるかもしれない。だからワクワクしている」

 なんてポジティブなんだろう、と正直思った。 このパワフルさというか、現実を直視したうえで逞しくいられる姿勢には本当に頭が下がるし、尊敬する。

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