「神様に寄り頼みます」の度合いの問題

2016年8月1日月曜日

クリスチャンと「常識」

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 今回は「神様に寄り頼みます」というセリフについて考えてみたい。

 これはたぶんいろいろな教会でいろいろなクリスチャンが言っている。しかしその意味するところは2つに分かれ、それぞれ対極的である。すなわち「心の拠り所」としての「寄り頼みます」と、かなり「現実的・実際的な困り事」での「寄り頼みます」

 前者の使用例はこんな感じ。
「神様に寄り頼みつつ、日々歩んでいきます」

 後者の使用例はこんな感じ。
「経済的に(かなり)困窮しています。返せるアテのない借金があります。でも神様に寄り頼んでいます」

 繰り返すけれど、前者は神を「心の拠り所」としている。いたって健全な状態。後者は「実際的な困り事」を神様に超自然的にどうにかしてもらおうと思っている。健全とは言いがたい。
 こんな話があった。

 ウソか本当か知らないけれど、あるとき韓国で大きな聖会が開かれた。記録的な大雨の日だった。信仰熱心な若者数名が参加しようと歩いていたら、川が氾濫しており、橋が渡れない状態になっていた。困った若者たちは、「これはあの聖会に参加するための、信仰の試練だ。神様を信じ抜いてこの川を渡るなら、ペテロのように水の上を歩いて行けるに違いない」みたいなことを言って、濁流に足を踏み入れた。結果、全員流されて行方不明になってしまった。

 そんな馬鹿なと思うかもしれないけれど、原理主義的な人たちは、こういうことを本当にやりかねない。そしてそういうのを「信仰的」とか「霊的」とか言う。異を唱える者を「不信仰」とか「悪魔の手先」とか言う。それで自分が孤立してしまうと、「真実な信仰ほど理解されない」とか言う。

 そういうのは一般的に「思い込みがはげしい」と言うんだけど、彼らはなおこう言う。「信仰熱心で何が悪いんですか?」

 上記の濁流の話ほどガイキチでないにしても、似たような話は沢山ある。
 たとえば、収入が少ないのに家族に相談なく過剰な献金をして、「信仰によって捧げたんだから報われるはずだ」と言い張る父親。結局食べるに事欠いて、奥さんに実家に頭を下げさせてカネを無心した。
 あるいは頭痛やら腹痛やら腰痛やらいろいろあって、「癒されるように祈って下さい」を年中繰り返してるメンヘラ気質な人。信仰熱心をアピールしたいからか、お金がないからか知らないけれど、決して病院にかかろうとしない。
 車のガソリン代がなくて、給料日までとてもガソリンが持たない状況の人。「神様が油を注いで下さる」とか言って給油しないで車に乗り続けて通勤した。結果どうなったかは、あえて書かない。

 こういうのは根本的なところで勘違いしていると思う。「神に寄り頼め」というのは、「だから無茶をしていい」という話ではない。さんざん無計画にやっておいて、その後始末を神に押し付けていいはずがない。そういうのは冒涜と言う。

 人間の業について神様がどう言っているか、聖書を開いてみると、「しっかり計画しなさい」というのが見つかると思う。あるいは「適切に管理しなさい」というニュアンスを見つけるだろう。または「考え方において子供であってはならない」という表現も見つけるはずだ。それらを総合すると、「ちゃんと常識をもって生きなさい」という話になると思う。だから超自然的な何かを期待して、あるいはそれを前提にして、無茶苦茶やることの方が「不信仰」なのだと思う。「奇跡を信じて何が悪い」と反論する人は、濁流に足を踏み入れたらいい。

 と、いう話を彼らにしても、おそらく彼らは聞き入れない。そしてますます信仰に進もうとして、逆に不信仰に進んでいく。だからこの文章は彼らに向けて書いていない。彼らの周囲の、より常識的な人たちに向けて書いている。彼らは口で言っても決して受け入れないので、「そういうもんだ」と思って見守るしかない。

 彼らがその「信仰」と言っている行き過ぎた行為によって、本当に本当に痛い目に遭って、「自分が間違っていた」と気づいたとしたら、それこそが「神の超自然的な恵み」だ。と私は思う。

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