「終末エンタメ」の話

2016年7月29日金曜日

雑記

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 数日前、キリスト教系終末小説『レフト・ビハインド』の著者、ティム・ラヘイ氏が死去された。

『レフト・ビハインド』は、「もしも携挙が起こったら」という終末世界(患難時代)を描いたフィクション小説である。何度か映像化されていて、ゲームにもなって、原作は日本でも全作翻訳されている。かれこれ15年くらい前だったと記憶しているけれど、キリスト教メディアに取り上げられ、そこそこ話題にもなった。いたずらに恐怖を煽るという批判もあったけれど、私個人は、単にクリスチャン向け終末エンタメとして何冊か読んでみた。途中で挫折してしまったけれど。

 ラヘイ氏がどういう意図をもって同書を書いたかよくわからない。真面目に信仰的に書いたのか、あくまでエンタメを意識して書いたのか。でもたしか彼の秘書が、彼がしばらく席を外してなかなか戻ってこなかった時、まさか本当に携挙されたのではと心配になった、という話を読んだことがある。だから彼の周囲では、けっこう真面目に携挙が意識されていたのかもしれない。

 同書はたしかに、想像力豊かにキリスト教的終末世界を描き出した力作だったと思う。分厚い本が全部で10冊くらいの超長編である。執筆の苦労は相当なものだったと想像する。
 しかしあくまでフィクションであり、「終末エンタメ」であって、聖書が示す終末の一つのイメージに過ぎない、というのは覚えておかないといけない。当たり前だけれど。あれをそのまま聖書的終末と結びつけてしまうと、いわゆる書籍信仰になる。それより、聖書の娯楽的な読み方の一つとして、また思考実験として、楽しむものが良いと思う。

 なぜ聖書的終末と結びつけるべきでないかと言うと、そもそも終末小説が、その時代の世相と切り離せないものだからだ。
 同書を今になって読み返すと、1995年刊行だから、作品世界としてずいぶん古い。当時はまだインターネットが物珍しい時代だった。スマホもSNSも当然ない。そういう時代に「もし携挙が起こったら」という話なので、すでに聖書的終末とはリアルに結びつかなくなっている。

 同書を今現在に書き換えるとしたら、たぶんもっとSNSの拡散力が良くも悪くも活用されるだろうし、ほかにも生体内チップとか、個人監視システムとか、そういう技術が作品に盛り込まれると思う。また同書には携挙時に沢山の自動車事故が起こったという記述があったと思うけれど、今は自動運転が普及しつつあるから、そういう事態にはならないだろう。携挙時のパニックを演出するには、なにか他の手を考えなければならない。

 しかしそれも「今」の話であって、5年後10年後には、全然違うテクノロジーや流行が生まれているだろう。だから今だれかが終末小説を書いたとしても、それは「今」だから通用する話にしかならない。
 つまり終末小説は、書かれた時代の世相と切り離せない。普遍的な何かにはなりえない。

 それにしてもアメリカ人は(あるいはハリウッドは)、終末世界を想像するのが好きなのだろうか。同国のドラマや映画をみると、終末関連のものがすごく多い気がする。それだけ大がかりなCGを作れて、地球規模のパニック映像、スペクタクル映像を作れるからだろうか。でも同じように映画やCGが盛んなインドでは、終末世界を描いた映画はほとんどないと思う。日本も然りだ。とするとやっぱりアメリカ人の国民性なのだろうか。

 アメリカはもともと移民の国だから、「旧世界」に替わる「新世界」、みたいな考え方が潜在的にあるのかもしれない。古い世界が(彼らの中で)終わり、新しい世界が始まる。そういう「世界の移行」が、聖書の言う終末(千年王国への移行とか、新天新地への移行とか)とうまくリンクするのかもしれない。
 なんて、偉そうに考えてみた。知り合いのアメリカ人たちをみてみると、「世界の移行」なんて言葉まったく出てこないけど。

 ともあれ故人のご冥福をお祈りしつつ、この結論のない話を閉じることにする。

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