「祈っていたら〇〇」で「神の御心」を捏造する構造

2016年7月21日木曜日

「祈り」に関する問題

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 先日twitterで、「祈っていたら〇〇」ってのは、もはや現代の免罪符と呟いた。それに関連して書きたい。

■「祈っていたら〇〇」という現代の「免罪符」

 よく教会、特に聖霊派や福音派で、こんなセリフの数々が聞こえてくる。

「祈っていたら〇〇と示されました」
「祈っていたら〇〇という言葉が胸に迫ってきました」
「最近祈っていても、ディボーションしていても、賛美していても、〇〇という思いが頭から離れないんです。これは間違いなく神様からです」

  こういうのを私が「免罪符」と言うのは、これらのセリフで「〇〇=神の御心」にできるからだ。「祈っていたら」を使えば、明らかに逸脱した内容でなければ、ほとんどなんの吟味もなく、まわりから「アーメン」される。つまり自分が感じたこと、思ったことが、祈りの最中のことであれば、全て「神から語られたもの」になってしまう。だから、「免罪符」。

「祈っていたら、明日の聖会に行くように示されました。だから明日は会社を休んで行くことにしました」
「祈りの中で〇〇の額を献金するよう示されました。だから信仰によって捧げました」
「祈っていたら、今日の何時何分にあの人に電話して伝道するよう示されました」・・・

 でも聖書を見てみると、たとえば誰かが預言をするとき、まわりの人にはそれを吟味する役目がある(コリント第1の14章)。吟味が必要なのは、それが本当に神からのものなのか、確かめる必要があるからだ。つまり、神からのものでない可能性がある、ということ。だから自分が感じたことが即「神の御心」とはならない。はずだ。

 しかしひるがえって現在の聖霊派(あるいは福音派)教会をみてみると、そういう確認作業はほとんど見受けられない。大金をかける事業についてなら別だけれど、個人レベルの「祈っていたら〇〇」は、ほぼノーチェックで「アーメン」される。だから言いたい放題な現状になっている。

 あるいは、「イスラエルの主は賛美をすまいとされる」という箇所を引っ張ってきて、こんなことを主張するだろう。
「私たちが賛美をしているとき、主はそこにおられます。だから賛美をしているときに心に感じることは、神様からのものに間違いありません(ムキッ)」
 でも賛美の場に主がおられることと、あなたの頭の中で展開される事柄とは、直接関係ない。その主張が通るなら、たとえば「神は死んだ」という歌詞のロックを歌っているときに感じる何かは、全部悪魔からってことになる。そのとき「神は愛です」という言葉が頭をよぎったら、それは悪魔からなんだろうか?

■青年Aの主張

 こういう話をすると、青年Aくんを思い出す。
 Aくんは幼い頃からクリスチャンで、いわゆる意識高い系で、何に対しても積極的で、すばらしいクリスチャン的発言の数々をし、まわりの大人たちからの評価も高かった。将来は牧師か宣教師か、とかもてはやされていた。彼自身は「いやいや僕なんてまだまだです」と謙遜なことを言っていたけれど、私はそこに謙遜でないものを感じていた。

 彼はいろんな楽器を弾きこなした。だからある程度の年齢になったとき、礼拝で奏楽奉仕を始めた。彼は嬉々として舞台に立った。
 その教会では通常、奏楽奉仕は隔週になるよう予定を組まれていた。毎週続くと大変なのと、奉仕者の視点でしかものを見れなくなるから、という配慮があったからだ。
 しかしAくんは、「毎週神様を楽器で賛美するよう示されています」と牧師に言った。人手不足だったこともあり、結局、Aくんは毎週奏楽の奉仕することになった。以来、今週はピアノ、来週はギター、みたいな感じで、オールマイティぶりを見せていた。舞台上で彼が時折見せる、目を閉じて顔を上げ、神を礼拝している敬虔そうな様子に、みな少なからず感動していたようだった。私は違ったけれど。

 さて何年かして楽器奉仕者が増えてきて、奏楽チームが充実してきた。どのチームともあらゆる楽器の奏楽者がいて、Aくんが毎週やらなくてもいい状況になった。それで、Aくんは隔週の奉仕に戻された。
 するとAくん、自分のカフォンを教会に持ってきた。そして「これで神様を賛美するよう示されました」と言う。で、結局彼だけ、また毎週奏楽奉仕をすることになった。

 同じようなことが他にもいろいろあった。
 伝道旅行が企画されると、「行って伝道するよう示されました」
 劇をやることになると、「演技をもって仕えるように示されました」
 なにか企画されると、「私がここにおります」

 つまりAくんにかかると、なんでもかんでも「祈っていたら〇〇をやるように示されました」なのであった。
 私は彼をみていて、「やりたいからやらせて下さい」って言えばいいのに、と思ったけれど、どうも彼は「示された」と言わなければ気が済まないようだった。

  そんなAくんも後に大きな失敗をやらかして、進路もあれこれあり、かつて大人たちが評したような感じにはなっていない。あれだけ沢山のことが本当に「示された」なら、大きく失敗することもなかったろうにと思うけれど。

■蔓延する「祈っていたら〇〇」

 しかしAくんのまわりにも「祈っていたら〇〇」を連発する大人たちがいたので、これはAくんだけの問題ではない。むしろ彼は被害者でもあると思う。幼い頃からそういう環境で育ってきたから、大人たちを喜ばせ安心させるため、また自分の承認欲求を満たすため、「祈っていたら〇〇」を身につけていったのだと思う(その結果加害者にもなってしまうのだけれど)。

 また残念ながら、Aくんみたいな子供も少なくない。やはり大人や教会の影響であろう。何か自分のやりたいことがあると、「祈っていたら〇〇と示されました」を使って、それをやる、というパターンを沢山見てきた。

 教会に時々遊びに来ていた若者Bくん。あまり信仰熱心とは言えず、礼拝はサボりがちだった。よく礼拝が終わった頃にやってきて、同年代の子たちとお菓子を食べて、ふざけて過ごしていた。
 さてある夏休み。教会で伝道旅行が企画された。若者たちがこぞって参加希望を出していた。締切ギリギリになってBくんもそのことを知って、急に参加を希望した。牧師は「とりあえず祈ってごらん」と言って保留にした。後日、Bくんが神妙な面持ちでやってきて、開口一番。「祈っていたら伝道に行くよう示されました」

 で、結局Bくんも参加したんだけど、旅行中は勝手に消えたり、1日寝てたり、皆が忙しい時に遊んでいたりと、まあ予想通りの展開であった。彼の旅行中の行動に、伝道の「で」の字も見られなかった。「伝道に行くよう示されました」の真偽のほどは、誰もあえて問わなかったけれど。

 この「祈っていたら〇〇」を使う動機は、人それぞれだと思う。素直に「やりたい」と言えないからとか、神との「霊的つながり」をアピールしたいとか、できる自分を見せたいけど自分からアレコレ手を出すのも格好悪いから「示された」ことにしようとか、いろいろ。

「でも本当に祈っていて示されたのかもしれないでしょ?」という反論があるかと思う。しかしその反論自体に矛盾がある。「かもしれない」という時点で、真偽は確かめられないと認めているからだ。本当かもしれない、でもそれは確かめられない、ではウソかもしれない、というどこまで行っても「可能性」の話でしかなく、永遠に答えが出ない。
 答えが出るとしたら、それはAくんが結果的にやらかした失敗や、Bくんが伝道旅行に行った「結果」にあると思うけれど。

■〇〇と示されたからやる、の根本的問題

 というわけで「祈っていたら〇〇」は真偽を確かめづらいので、現代の「免罪符」的にあちこちで使われている。
 でもその真偽を確かめるウンヌンの前に、根本的な問題があると思う。すなわち、示されなかったらやらないんですか? という問題。

〇〇と言われたからやる」を裏返すと、「言われない限りやらない」になる。つまり能動的行動のない信仰。受け身の信仰。Bくんの伝道旅行でいえば、「行きたい」からでなく、「行けと言われたから行く」ということ。Aくんでいえば、「やりたい」からでなく、「やれと言われたからやる」ということ。自分自身の願いや、欲求や、挑戦したいという意欲はどこにもない(本当はあるんだけど)。

 人間には自由意思と選択の自由が与えられている、というのは今までも沢山書いてきた。それは神が人間に願っていることだと私は思う。聖書の価値基準を知り、そのうえで自分で判断し、目的をもち、自ら行動すること。それこそがクリスチャンらしい生き方だと思う。

 だから「祈っていたら〇〇と示されました」みたいな面倒臭い話でなく、「〇〇したいからします」で全然いいと思う。「〇〇をすべきかどうか神様導いて下さい」でなく、「〇〇するので神様助けて下さい」でいいと思う。教会の中でそれを言いづらいのはわかるけれど、本当は自信がないのに「示されました」と言ってしまうよりは、うしろめたくないだろうと思う。

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