キリスト教的「権威」と、牧師の「権威」を試す方法について考えてみた

2016年6月27日月曜日

「権威」に関する問題

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 たぶん初めて書くけれど、「権威」について。

 やたら「権威」を強調する牧師や教会リーダーがいて、ローマ13章1~2節の「権威に従え」とか、ペテロ第1の5章5節の「長老たちに従え」とか、へブル13章17節の「指導者に服従しろ」とかの聖書武装で、信徒に服従を迫ることがある。一見聖書信仰的な気がするけれど、同時に嫌な感じもする。
 たとえばこんなケース。


 ある集会。教会にゲストスピーカーが来て、講壇で話している。牧師は司会席でふんぞり返っている。信徒がメモしたりウンウン頷いたりしながら聞いていると、突然牧師がマイクを持って、ゲストの話を遮った。「皆さん、ちゃんとアーメンと言いなさい! 先生(ゲスト)は犠牲を払って来てくださっているんですよ? 尊敬をもってお話を聞きなさい!」
 というなぞの激怒。


 真夏の礼拝中。牧師が講壇で説教している。会堂は冷房が強めにかかっている。寒くなってきた信徒が、冷房を弱めにした。それを見ていた牧師が一言。「冷房は強くして下さい。講壇は暑いんですよ? 説教者に合わせて下さい」
 というなぞのワガママ。


 某有名説教者の集会にて。赤ん坊が泣きだすと、説教者が一言。「赤ん坊を会場から出して下さい。聖霊様の声が聞こえなくなります」
 泣き声で聞こえなくなる「声」なら、聞かなくていいんじゃね?

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 ある牧師(?)の談。
「信徒の家で牧師が集会をする時、権威は当然牧師にあります。しかし電話が鳴ったり宅急便が来たりお茶を出したりで、集会の権威はその家の人にあります。すると複数の権威が存在することになり、統制がとれなくなります。あるいは神からの霊的権威以外のものが優先され、人間的な集まりになってしまいます」
 つまり、客だけど我が物顔させろ、という主張。

「権威」をどう理解しているのかすごく疑問。こういうの。もしかしたら、「人を服従させる権利」とか、「人を支配していい権利」とかだと勘違いしているかもしれない。そういう人は牧師とかリーダーとかの肩書きを返上して、勉強し直した方がいいと思う。害にしかならないから。

 先に挙げたローマ書もペテロ第一の手紙も、文脈があっての「権威に従え」である。その文脈を無視して、切り取って使ってはいけない。
 もし聖書を切り取って使っていいなら、たとえばローマ3章8節は「悪をしようではないか」という話になってしまう。じゃあクリスチャンの皆さん、思う存分「悪」をしましょう(冗談)。

■「権威」はえらい?

 上記の牧師たちをみていると、どうも自分のことを「えらい」と思っている気がする。
「えらい」から上からものを言っていい、
「えらい」からワガママが通る、
「えらい」から優先される、
「えらい」から大切にされて当然、
とか。

 韓国でいくつかの巨大教会を訪問したことがあるけれど、お茶を出してくれた秘書にめちゃくちゃ怒っていた牧師がいた(どの教会とは言わない)。そこだけ通訳してくれなかったからよくわからなかったけれど、熱いお茶でなく冷たいお茶を出せ、みたいなレベルの話だったと思う。で、ソファにふんぞり返った牧師が秘書の若い女性をめちゃくちゃ怒鳴りつけてて、かなり引いた。思えば秘書の方ははじめからビクビクしてる印象があったから、たぶん日常的に牧師に怒鳴られてたんだと思う。本当にかわいそうに。

 たぶん牧師に言わせれば、「自分は霊的権威者だから」「普段から奉仕で労しているから」みたいなことを言うんだろうけど、だから何?
 先のペテロ第一の箇所で言えば、リーダーは群れを「支配」するのでなく、群れの「模範」でなければならない。じゃあ、秘書の出したお茶が気に入らないからって怒鳴りつけるのは、模範なの? 違うでしょう。単なる支配欲でしょう。

 また権威を「霊的なもの」と言う人もいるけれど、いやいや、権威とは実際的であるべきだ。つまり模範的であり、親切であり、愛に満ちたものであるべきだ。どうしても「先生」と呼ばれて立場が強くなりやすいのだから、なおのこと、柔和な姿勢を見せなければならないと思う。「霊」という見えないもので、自分の足りなさや弱さをごまかしてはいけない。

■本当の「権威」には犠牲がつきもの

 たとえば先に挙げたへブル13章17節は、「指導者に服従しなさい」と明言しているけれど、その理由として、「あなたがたのたましいのために見張りをしているのだから」と記している。つまり卑しい利得でなく、真心から信徒のために労している指導者であることが、服従のための条件となる。誰にでも服従しなさい、という意味ではない。

 またそれが「真心」かどうかを判定するのは、牧師自身のはずがない。牧師が「私は真心から牧会している」とか言ったら絶対信用してはいけない。本当に真心からしている人は、いちいちそんなアピールしないからだ。というかできないからだ。真心からすればするほど、それが足りていない現状を目にするからだ。

 つまり牧師が精一杯やってくれているかどうかを判定するのは、それを受ける信徒自身に他ならない。信徒が不十分だと判断したら、その牧師は少なくともその信徒にとって不十分なのだ。牧師はあれこれ反論しないでそれを真摯に受け止めなければならない。その意味でも、牧師は多くの犠牲を払う立場にある。

 それに、聖書を読むには、その書かれた時代背景を考慮する必要がある、というのはよく言われる。その通りだと思う。たとえば神とクリスチャンとの関係を、羊飼いと羊との関係に当てはめて説明するのは、当時のユダヤに羊が沢山いたからだろう。これがエスキモーの土地だったら、羊でなくトナカイだったかもしれない。いやトナカイの生態はよく知らないけど。
 とにかく、時代背景を考慮する必要がある。

 で、時代を考えてみると、当時はローマ帝国による迫害が激しくなる一方だった。
 迫害というのは現代日本ではなかなか想像のつかない事態だけど、クリスチャンというだけで投獄されたり、拷問されたり処刑されたりした。でも実際のところは、クリスチャンが根こそぎ全員投獄される事態より、指導者が代表として投獄されることの方が多かった。ペテロが捕まった箇所を見てもわかるけれど、指導者つまり代表者が、捕まったり、拷問されたり、処刑されたりすることが多かった。見せしめとして。

 つまり指導者(今で言えば牧師やリーダーたち)は、皆を代表して、真っ先に犠牲にならなければならない。特に迫害下においては。また迫害まで行かなくても、たとえば地域との揉め事や行政との揉め事があれば、代表してその責めを負わなければならない。そうして信徒を守らなければならない。

 そういう存在であるなら、服従しろとか尊敬しろとかの意味もわかってくる。お茶が熱いからって怒鳴りつける牧師を尊敬するのとは、ぜんぜん話が違う。

■牧師の「権威」を試す方法

 それで是非やってみたいのが、地域を挙げての壮大なドッキリ作戦。地域の人に協力してもらって、大迫害が起こった設定にする。で教会が襲われて、牧師が連行されて、不当な裁判にかけられて、どんどん不利な立場に立たされて、さてそのとき牧師はどうするか? まさか信徒を売ったりしないよね? とういのをすっごく見てみたいんだけど、誰か協力してくれないかな(またまた冗談)。

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