「脳内神様」か、本当の神様か

2016年6月16日木曜日

雑記

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■収容所の小さな貴婦人

 原典不明だけれど、『収容所の小さな貴婦人』という話がある。実話かどうかも定かでない。けれど寓話だとしても、人間心理の面白さをよく現している。こんなお話(以前にも紹介したことがある)。

 第二次大戦中、フランス軍の小隊が、ドイツ軍の捕虜になった。
 捕虜生活が長引くうち、みな苛立って、仲間どうしで喧嘩や諍いが絶えなくなった。
 これでは精神衛生上良くないと思ったのか、彼らはその房の中に、架空の1人の「貴婦人」がいると想像することにした。
 具体的にするため、房の隅にテーブルやら椅子やら置いて、そこに貴婦人が座っていて、いつもこちらを見ている、という設定にした。そして着替えの時は貴婦人に見られないように布で隠し、食事の時は彼女の分をちゃんと準備した。彼女の誕生日(みなで決めた日付)にはお祝いしたり、彼女を囲んでクリスマスを祝ったりと、本格的な「同居生活」を演じた(たぶんその過程で、彼女のディティールが決まっていったと思われる)。

 すると最初はゲーム感覚だった貴婦人の存在が、徐々にリアリティを持ち始めた。兵士どうしで喧嘩になりそうな時は、貴婦人の前だからと拳を収めるようになった。汚い言葉を口にしてしまった時は、彼女に謝った。みな毎朝彼女に挨拶し、そのそばを通る時は会釈した。
 その様子があまりにリアルだったので、あるとき監視のドイツ兵が、房を隅々まで捜索した。フランス兵たちが少女をかくまっているのではないかと、本気で疑ったのだ。
 厳しい捕虜生活の中、他の房の捕虜たちには衰弱死したり病死したり、発狂したり自殺したりする者が多く出た。しかし架空の貴婦人と同居していたその小隊のメンバーは全員、正気を保って生き延び、戦後はそろって帰国を果たすことができた。
 というお話。

■「実在」となる「架空の存在」

 そんな馬鹿なことがと思うかもしれないけれど、これと似たような話は他にもある。
 ナショナル・ジオグラフィック・チャンネルの番組"Story of God with Morgan Freeman"で興味深い実験が紹介されていた。対象は幼児で、後ろ向きでボールを投げて的に当てられれば、ご褒美がもらえる。当てられなければ何もない。で、「誰も見ていない」とわかると、ほとんどの子がズルをして、振り向いてボールを投げた。でも「魔法で透明になったお姉さんが見ている」と言われると、ほとんどの子がそういうズルをしなくなった。という実験結果だった。

 これはもちろん幼児だからだけど、「そこに人がいる」と信じることで、そこに人が存在することになる。見えないんだけど、その子にとってリアルな存在となる。だからズルができない。

 こういう例はすごく身近にもある。たとえば学校とか職場とかで、苦手なグループの人たちから悪口を言われているような気がする、というのがある。その人たちが、自分の方も見ながら笑って話しているように見えて仕方がない。あれは絶対に自分の悪口を言っているんだ、自分は嫌われているんだ、物笑いにされているんだ、もう学校(職場)行きたくない、となる。実は悪口なんて全然言われてなくて、完全に気のせいだとしても、そう信じてしまうと訂正できない。その人は存在しない悪口を、自分の中でだけ実在させる。

■では「神」という存在は

 これは「神」という存在に対しても適用されうる話だと思う。
 と言っても、「キリスト教の神様って、もしかしたら想像の産物じゃね?」とか言うつもりはない。これでも一応クリスチャンなので。

 でもそういうクリスチャンが、他宗教の「神」に対しては、同じことを言うだろう。たとえば仏教の「菩薩」とか、ヒンズー教の「シヴァ」とか「ヴィシュヌ」とか、クリスチャンならそういうのは全部「想像の産物でしょ」と言うはずだ。あるいは「悪魔の仮の姿だよそれ」とか言うかもしれない。
 しかし、仏教徒やヒンズー教徒はそれらを真面目に信じている。彼らの中に菩薩は実在し、シヴァは実在する。そして彼らは聖書の「創造主」こそ「想像の産物でしょ」と言うだろう。あるいは多神教的視点から、「神々の1人でしょ」と言うかもしれない。

 つまり、「その存在を信じているから、それは存在する」という話。お互いに。

 じゃあ神様の存在は証明できないのかと言うと、そんなことはなく、証明できると私は思う。聖書も言っているけれど、「被造物が神の存在の証明」になると私は考える。しかしここでそれを説明すると話が脱線しまくるので、べつの機会にしたい。

■問題:「脳内神様」か、本当の神様か

 今回のポイントはここ。
 私たちが「神様」と思って信じている対象は、本当に「聖書の示す神様」だろうか。
 自分たちが(教会が)勝手に作り上げた、「脳内神様」になっていないだろうか。

 たとえばカルト的教会では、「神様」はこんなお方。

・奉仕しない信徒は祝福してくれない神様。
・献金しない信徒は祝福してくれない神様。
・毎週ちゃんと礼拝しないと祝福してくれない神様。
・一生懸命何時間も祈らないと御心を示してくれない神様。
・牧師に意見する信徒は厳しく罰する神様。
・牧師にだけ特別な啓示を与え、信徒には一切与えてくれない神様。
・能力がないと用いてくれない神様。

 他にも沢山あるけれど、これで十分だろう。
 見ての通り、これらは、聖書が示す神様像からかけ離れている。でもそこの信徒にとって、神様とはそういうお方なのだ。もはや愛の神様でなく、憐み深い神様でもなく、厳しい監督官みたいな存在。でもそれは教会が作り上げた「脳内神様」みたいなものだ。上記の「貴婦人」とか「透明なお姉さん」とかと同じで、「その存在を信じているから、それは存在する」という種類のもの。

 自分が礼拝し祈る相手が、自分の「脳内神様」だとしたら、こんなバカらしいことはないと思う。言葉は悪いけど、それは信仰という名のマスターベーションじゃないだろうか。

 またそれはカルトっぽい教会だけの話ではない。信仰熱心な人が、「脳内神様」相手に賛美したり祈ったりしているのを時々見かける。だから自分自身の「神様イメージ」は時々点検した方がいいし、神様をあんまり(自分の中で)人格化しない方がいいと思う。わからない部分はわからないままでいい。牧師に言われるままに「神様との親密な交わり」とやらを試して、自分勝手な「神様像」を作り上げてしまうよりは。

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