「聖霊使い」になっちゃった

2016年6月14日火曜日

「聖霊」に関する問題

t f B! P L
■注目される「聖霊」

 1900年代にアメリカで始まったペンテコステ運動以来、その流れをくむ教団教派では、今日も「聖霊」が注目されている。

 その流れにはいわゆる「大物」も関わってきた。たとえばキャサリン・クールマンとかベニー・ヒンとかチョー・ヨンギとか。いずれも集会を開けば大人数を動員する(した)面子だ。彼らが壇上で「聖霊様は〇〇です」と発すれば、次の日には信者の間で「聖霊様は〇〇なんだよ」って話になる。印象的だったのは、ベニー・ヒン著『聖霊様おはようございます』が出版されるやいなや、毎朝「聖霊様おはようございます」って挨拶とともに起きる人が急増したことだ(彼らが今もそういう挨拶をしているのかどうかは知らない)。

 日本ではペンテコステ親交会という集まりがあって、教役者大会というのを毎年開いている。その流れの牧師たちが一同に集まって、最近の海外の「トレンド」を仕入れたり、励まされたり恵まれたり何だりで、それぞれ帰っていく。で、その「トレンド」を自教会で「新しく開かれた真理」みたいな形で信徒たちに紹介していく。だから「後の雨」が流行れば教会全体で「後の雨をくださーい」となって、「レストレーション」が流行れば皆で「レストレーションをこの地に・・・!」となる。
 大変わかりやすい構図だ。

 つまり、「大会で仕入れたこと=真理」となっている。あるいは「海外の最新の動向=真理」となっている。吟味? そんなものはない(キッパリ)。もちろん全部が全部ではない(と思う)けれど。

 ちなみにそういう大会で面白いのは、牧師たちのミーハー振りである。ゲストの「大物牧師」と挨拶できただけでキャーキャー言っちゃう若手牧師とか、iPhone発売当時で言えばiPhone自慢とか、ノートパソコンで聖書検索した結果をパワポに連動させてますけど? 的なガジェット自慢、ツール自慢とか、伝道集会で○○したら何人動員できたとか、そういうの。相手が信徒じゃないからか、けっこう素の牧師の顔が見られる。

■いまいちわからない「聖霊様」

 それはともかく、話を戻すと、要は海外から入ってきたトレンドが、ほとんどノーチェックで聖霊派教会に入っていく。いろいろ意見はあるだろうし例外もあるだろうけれど、そういう現状がある。

 で、牧師は礼拝説教とか祈祷会とか、聖書の勉強会とかで、「聖霊論」を展開する。聖霊関連の信仰書も出版されているから、熱心な信徒なんかは読む。そういう「学び」から読み取れる「聖霊」の特徴は、こんな感じ。

「聖霊様には人格がある」
「彼はすぐ隣にいる助け手で、すべてのことを教えて下さる」
「彼は私たちと交わりたいと願っておられる」
「彼は私たちの友達である」

 というわけで、"I am a friend of God 〜"とノリノリで賛美をすることになる。

 でも、そういう「学び」を総合しても、聖霊に関していまいちピンとこない。

 たとえばだけど、前述のベニー・ヒンの書籍によれば、彼は「聖霊様」に乞われて夜中に何時間も「聖霊様と語り合った」という。そういうのを読むと「すごい」と思う反面、果たして我々は「天の父よ」と祈るべきなのか、「聖霊様」と祈るべきなのか、ちょっと混乱する。また前述の通り「聖霊様おはようございます」と挨拶するなら、同様に「アバ父よ、おはようございます」とか「イエス様おはよー」とか挨拶すべきではないのか? という疑問も出てくる。そして「天のお父様、またイエス様、そして聖霊様・・・」みたいに3者それぞれの名前を最初に挙げて祈る人も出てくる。

 他にも、「聖霊様が働かれる」とか「聖霊様が語られる」とか教えられるんだけど、それらを実生活にどう適応したらよいのか、いまいちわからない。ベニー・ヒンの真似をして誰もいない椅子に向き合い、「聖霊様、どうぞそこにお座りになって、私と語って下さい」と祈ってずーっと返事を待ってて、いつの間にか寝てました、という話も聞いたことがある。

 教会で「聖霊様はね、」としたり顔で話す牧師とか先輩信徒とかも、案外よくわかっていない。質問されると「それは祈っている人にならわかります」とか「祈りが全てです」とか適当なことを言って、煙に巻くのをよく聞いた。

 しかしそれは仕方のないことだ。なぜなら前述の通り、それが「大会で仕入れてきたトレンド」だからだ。たとえば大会で「聖霊様は私の親友だ」とか聞いてくると、ミーハー牧師たちにとって「聖霊様は親友」というのが大前提になって、それを裏付ける聖書箇所を、後付けで引っ張ってくることになる。つまり「後付け神学」なのだ。だから細かいことを聞かれても当然わからない。

 それで一番迷惑するのは真面目な信徒たちであろう。わからないから信仰書を読みあさったり、いろんな大会や集会に通ったり、何時間も祈ったりするんだけど、やっぱりわからない。
 で、どうなるかと言うと、だんだん自己流の解釈をするようになっていく。

■ゼスチャーコントロールされる「聖霊」

 今日の聖霊派教会でみられる「聖霊像」とか「聖霊のイメージ」とかには、そういう自己流の解釈が多分に混じっていると思う。意識的にか無意識的にか、「自分たちにとってわかりやすい何か」に置き換えられつつある気がする。

 たとえば「聖霊よ、流れよ!」とか仰々しく祈るとき、多くの牧師は手をバーっと広げて、明らかに「風」の形を意識している。それは「息吹」という聖書表現を意識してのことだろう。また「聖霊を注いで下さい!」と祈るときは、両手を広げて天を仰ぐ。空から「雨」が降ってくるようなイメージだ。また「聖霊充満!」と祈るときは体内にガソリンでも充填するようなゼスチャーをする。つまり聖霊を「エネルギー体」みたいに捉えている。

 それの何が問題かと言うと、たとえば手をバーっと広げれば聖霊のウェーブが放たれるとか、両手を広げれば聖霊が雨となって降ってくるとか、そういう「ゼスチャーコントロール聖霊」になってしまっている点だ。『ジョジョ』で言えば「スタンド」みたいな感じで、聖霊を都合よく操れるエネルギー体みたいに考えている。

 その顕著な例を挙げると、「聖霊を飲みなさい!」と言って、信徒に向かって大きなバケツをひっくり返すようなゼスチャーをする海外の「大物ゲスト」がいた。聖霊を完全に飲み物にしている。
 あるいは「聖霊を受けよ!」と叫んで、自分の口で「プシュー」とか言いながら、信徒の顔に息を吹きかける牧師もいた。べつにプシューでも何でもいいんだけど、やる前にマウスウォッシュをしてもらわないと困る。本当に(苦笑)。

 そう考えてみると、信徒に手を置いて「倒す」行為にも、そういう側面があると思う。自分の手から波動か何かを送って信徒を倒す、みたいな感じだ。

 それはつまり、自分の「祈り」で聖霊を自在に操れる、ということと等しい。「聖霊は私の友達」と言う割に、扱いがずいぶん雑じゃないだろうか。
 手をバーってしたり、雨が注ぐように上下に手を振ったり、泉が湧くように手を押し上げたり、そういうゼスチャー付きで「聖霊よ! 〇〇!」とか叫ぶ牧師の姿を思い返してみると、なんか「聖霊使い」という言葉を連想する。『ジョジョ』の「スタンド使い」じゃないけれど。

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