クリスチャン特有の迷言、妄言をまとめてみた(ツッコミ付き)

2016年6月11日土曜日

雑記

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 時々見かける、一部のクリスチャンの方々の迷言、妄言をまとめてみる。もれなくツッコミ付き。でもそのまま書くのも無粋なので、ちょっと脚色してみる。
 心当たりのある人には、逆上してさらなる妄言を増やさないでいただきたいと思う(苦笑)。
 ではさっそく。

・迷言、妄言
「体の調子が悪いです。〇〇や××や△△の症状があって辛いです。癒されるように祈って下さい」
→さっさと病院に行って下さい。

・迷言、妄言
「祈りは必ず聞かれる!」
→神様には耳があるので、どんな祈りも聞いてます。

・迷言、妄言
「その戦いが神の戦いなら、あなたは疲れることがありません」
→じゃあ24時間寝ないで戦って下さい。

・迷言、妄言
「サンデークリスチャンは御国に行けません」
→じゃあ何クリスチャンなら行けるんですか?

・迷言、妄言
「この世には悪がはびこっています」
→教会の中にもね。

・迷言、妄言
「血肉の家族より、神の家族との絆の方が絶対です」
→何かあればその「神の家族」が真っ先に敵になります。

・迷言、妄言
「礼拝中にお腹が痛くなったり、頭痛がしたりします。やはり礼拝は霊的戦いの場なのですね」
→神社仏閣に油まいてきたら?

・迷言、妄言
「自分が主に用いられるかどうかは、祈りにかかっています」
→じゃああのロバの子は熱心に祈っていたんですね!

・迷言、妄言
「神の国は民主主義ではない」
→独裁政治でもありません。特に牧師の。

・迷言、妄言
「今日の礼拝、恵まれました~」
→恵まれに行ってるんですか?

・迷言、妄言
「リバイバル絶好調!」
→・・・はぁ?

 以上、最近みた迷言、妄言を紹介してみた。
 最後に真面目に書くと、こういう信仰っぽいようで実は全然信仰っぽくない発言の数々は、教会での「教え」に問題がある。聖書がどう言っているかより、教会が代々どう教えてきたか、牧師が代々どう教えられてきたか、が重視された結果。つまり「聖書のことば」より「人の言い伝え」の方が重要になってしまっている、という新約時代のキリストの危惧が、そのまま現代も続いているということ。

 たとえば、「霊の戦い」なんて概念は、聖書というより、『エクソシスト』みたいな映画の影響が強い。仮に「悪霊追い出し」が現在もあるとしても、それは一進一退のドラマチックな「戦い」という意味ではないし、腹痛がしたり頭痛がしたりというセコイ「悪魔の攻撃」をも意味しない。

 だから間違って教えている牧師や教会の責任は大きいし、それを真に受けて新しく「教える側」に回っていく人々も、同様の責任を負わなければならない。自教会でやってる「聖書の学び会♪」に出てもどんどん偏っていくだけだし、間違いが強化されていくだけだ。それよりいろいろな本を読んで、キリスト教の歴史からまず学ぶべきだし、いろいろな教団教派に分かれている理由とか経緯とか、そのあたりの視点から、今自分が立っている「場所」を眺めてみるのが大切だと私は思う。

 間違っても「聖書だけ」「聖書があれば十分」じゃダメ。結局聖書の言っている意味がわからないから他人(牧師とか先輩とか)に聞くことになって、そうすると、その人の「解釈」を聞くことになる。でもそれが間違っていたら? あるいは偏っていたら? 聖書しか読まなかったら、そのへんのことが全然わからなくなってしまう。

 だからクリスチャンの皆さんには(ゆっくり自分のペースでいいから)、ちゃんと勉強すること、自分なりに考えてみることをお勧めする。

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