聖書的教育か、ただの検閲か

2016年6月6日月曜日

教育

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■ある投書

 はじめに、某ホームスクーリング支援団体(キリスト教系)の機関誌に載っていた投書を紹介したい。長いので、主要部分だけ抜粋する。

「ここ数年、折に触れて祈ることがあります。『ジブリ』についてです。先日、友人から演奏会に誘われました。テーマは『ジブリ』だということでした。行こうと一瞬思いましたが、次の瞬間やめようと思いました。子供たちには、ジブリの作品は見せていません。テレビ自体も、私(親)が納得した番組を録画して20~30分間で、もし見ている間に、少しでも神様に喜ばれない内容が出てくると、子供たちに説明し、ストップします。(中略)息子は読書に熱心でありますので、私が選書するか、チェックしてから読ませることにしております。Iさん(団体代表)はどのように考えていらっしゃるか、また、選書に関してどのようにしていけばよいか、ぜひお伺いしたいと思いお手紙を書かせていただくことにしました。」

 という内容(ちなみに敬語が若干おかしいのは私のタイプミスではない)。
 これは長い投書の一部分なんだけど、この親の考え方や「信仰」を知るには、ここだけで十分だと思う。さて皆さんだったら、この投書にどう答えるだろう。

 これは大変悲しい事態だなあと思った。
 私がその家の子供だったら、本当につらい。だってジブリを見たいと思っても見られず、親が許可するものしか見られないのだ。しかも見ている最中に、「この部分はダメだ。これは○○という理由で神様に喜ばれないから、もうやめよう」とか言われて、一方的に中断されてしまう。だったら最初から見せるなよって話

 たとえば『もののけ姫』だったら、冒頭、アシタカは村人を守るため「タタリ神」を殺してしまう。その代償として呪いを受け、村を追われることになる。アシタカは「タタリ神」を生み出したと思われる鉄の玉の手掛かりを追い、西の国へと向かう。
 これはつかみとしては完璧だ。アシタカはどうなるの? 呪いは解けるの? とごく夢中にさせる。それで観ていると、途の村で戦出くわす。人を襲う武士たちを見て、アシタカはやむなく何人か殺す。このとき、両腕を切断したり、首を切断したりという描写があって、とたん、「あ、これはダメだ。もうやめよう」と親に言われ。画面は暗転。そして親の「聖書話」が始まる。まだ始まって10分とか20分とかなんだけど。アシタカ、どうなるの? その答えは大人になってから(苦笑)
 こういうのを本当に「子供のため」と思っているとしたら、もうちょっと子供の立場になってみて、いろいろ想像してみるべきだと私は思う。

 べつに残酷な殺害場面を見せろって話じゃない。グロテスク描写は程度にもよるけれど、私も観ようと思わない。けれど一つの作品を鑑賞するうえで大切なのは、一部分でなく、全体から伝わってくるメッセージをつかむことだと思う。『もののけ姫』で言えば、文明と自然は共存できるのかとか、裏切りの多いこの世界で人を信頼するとは何なのかとか、アシタカの高尚さや勇気や誠実さを見習いたいとか、そいういうのが中心的なメッセージになるだろう。間違っても、両腕を切断された武士の顛末は中心にはならない。

 しかしその場面で中断された子供にとって、『もののけ姫とは、両腕を切断された武士の話である。そこが「エンディング」なのだから。

 ちなみにグロテスク描写についてついでに書くと、グロテスク描写そのものを目的とした映画と、テーマのためにグロテスク描写を利用する映画とでは、全然意味が違うと思う。前者は単なる悪趣味かもしれないけれど、後者はリアリティの為にあえてグロテスク描写をする。たとえば『プライベート・ライアン』のノルマンディ上陸作戦なんて相当残酷な描写で、下手なホラー映画よりホラーだけれど、かと言ってあれをホラー映画に分類する人はいない。
 だからグロテスク描写の有無にだけこだわっていると、本当に良い作品をも見逃すことになってしまう。

■これは聖書的教育か、ただの検閲か

 しかし日本のホームスクーラーにとって、この投書のような例は全然珍しくない
 大抵のホームスクーラーは、子供に害のあるものは徹底的に見せない。そして害があるかどうか自分で決める。それに従うのが子供にとっての信仰だ、と考えている。

 その動機そのものはきっと、子供が大切だから守りたいとか、立派なクリスチャンになってほしいとか、親の責任を果たしたいとか、そういう種類のものであろう。けれど上記のホームスクール支援団体の言うことを全部鵜呑みにしてしまっていると思う。そして前回も書いたように、それは情報統制であって、乱暴な言い方をすれば、「検閲」と変わらない。子供は親の一方的な価値観を押し付けられ、神に喜ばれる・喜ばれないを押し付けられる。
 その家庭においては憲法にうたわれている言論の自由や表現の自由はなく、焚書坑儒みたいな思想統制だけがある。

■ホームスクールらしい「個別性」とは

 でも子育ては人それぞれでしょう? という意見もあるだろう。だから上記のような検閲的教育方法を良しとする向きもあると思う。

 けれど全国のホームスクールの人たちがやっているのは、支援団体に教えられた通りの教育方法がほとんどだ。「子供の個性を伸ばす」「子供の得意・不得意に合わせてカリキュラムをオーダーメイドする」とか聞こえのいいことを言っているけれど、結局のところ国語、算数、理科、社会などの一般科目はちゃんとやっておかないと(親が)不安になるし、高校生に至っては高卒認定試験に合格できるレベルまで行かないと、その先がなくなってしまう。だから学習内容は自ずと同じものになっていく。それにテレビはダメ、マンガはダメ、映画はダメ、雑誌はダメ、というのもどの家庭も一緒だ。だから結果、ホームスクールとは、各家庭に分かれて同じことをしているに過ぎない。

 これはホームスクーラーの集まりに行ってみればわかるけれど、どの家庭もどの親もどの子も、雰囲気がすごく似ている。似たような笑顔のお父さん、似たような教育熱心なお母さん、似たような挨拶さえできない子供たち。それは「個別性」というより「均質性」だろう。いくら各家庭に分かれても、その方針が同じなら結果的に同じことになる。
 その意味で、公立学校と何ら変わらない。

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