「クリスチャン高校生」の「生き生きした様子」とは何か考えてみた

2016年5月29日日曜日

教育

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 いわゆる「若者伝道」をするキリスト教団体がある。主に高校生や大学生をターゲットにしていて、毎週どこかで(こじんまりした)集会をひらいたり、休暇シーズンにキャンプを企画したり、時々簡単な機関誌を出したりと、いろいろ活動している。現場のスタッフは一部しか知らないけれど、皆よく頑張っていると思う。たぶん無償か、有償でも気持ち程度しかもらっていないと想像すると、本当に頭が下がる。

 クリスチャンの若者というと、オーストラリアのヒルソングあたりを連想する人がいるかもしれない。私はまさにそうだ。とにかく若者がウジャウジャいて、バカ騒ぎしたり、そうかと思えば急に真面目になって聖書を読んだり祈ったり、若者専用の会場があったり、美男美女がわんさかいたりと(そこじゃないって)、日本からしたら若者の理想郷みたいなイメージがある(もちろんそこにもいろいろ難しいことはあると思う)。若者の絶対数が少ない日本からしたら、全然別世界である。

 そのせいかどうかわからないけれど、先のキリスト教団体は「クリスチャン高校生たちが生き生きするように」という目標を掲げている。

 クリスチャン子弟を励まそう、みたいなスタンスになっている時点で「若者伝道」という目的から外れている気がしないでもない。まあそこはいいとして、「クリスチャン高校生たちが生き生きするように」という表現がなんとなく引っ掛かった。はたして「クリスチャン高校生」の「生き生き」とはどんな状態なのか。

 先に断っておくと、私はクリスチャン高校生に関わる仕事を長くしていた。あまり使いたくないクリスチャン用語で表現すると、「若者たちに重荷がある」みたいな感じだ。だから若者たちには思い入れがある。それは好きとか嫌いとかいう感情ともちょっと(たぶん)違う。若者たちを貶めるつもりもない(むしろ逆)。というスタンスでこれを書いている。

■「生き生き」って何

「クリスチャン高校生が生き生きするように」という願いの背景には、「クリスチャン高校生が生き生きしていない」という認識があるんだと思う。では、どこを見て「生き生きしていない」と判断したのか。日本のキリスト教界は若者があんまり目立たないからか。あるいは自分たちの「クリスチャン高校生のこじんまりした集まり」がイマイチ盛り上がらないからか。あるいはクリスチャンの若者自体が日本では少数だからか。

 もちろん、「教会の若者」と言っても様々で、一括りにはできない。外資系の先進的な教会だと、若者が大勢いて、「礼拝」でなく「サービス」で、「讃美歌」でなく「プレイズ」で、「イエス様」でなく「ジーザス」で、毎週クラブかパーティに来ているみたいに「ヒャッホー」な感じで、元気だ。
 一方オーソドックスな教会だと、親が牧師だから(あるいは親が厳しいから)仕方なく出席している若者とか、特にそういう事情がなくても律義にやってくる若者とかがチラホラいるだけで、ほとんど口を開くこともなく、終わるとすぐに帰る。元気かどうかと問われると、特別元気には見えない。

  ではそういう見た目の「元気さ」で、「生き生き」加減を判断しているのだろうか。残念ながらそうではないかと思う。若者たちが笑顔で元気に賛美したり、泣きながら祈ったり、熱く抱き合ったり、神様に叫んだり、という様子を「生き生き」と形容している。そしてそこを目指している。


 であるなら、ヒャッホーな教会(外資系に限らない)に若者たちを送ればいいって話になる。そうすれば皆「生き生き」するだろう。あるいは、自分たちの集会をヒャッホーな感じにすればいい(べつにヒャッホーをバカにしている訳ではない)。

 でも実際には、それでは解決しない。

 たとえば、「ヒャッホーな教会」と「オーソドックスな教会」という乱暴な表現を使うけど、オーソドックスな教会の「無口でつまらなそうな」若者を、ヒャッホーな教会に送り込んだらどうなるか。たぶんヒャッホーとはならない。「元気」にもならない。かえって砂浜が広大に露出するくらい引くと思う。
 つまり若者たちの振る舞いは、その教会の雰囲気とか方針とかの影響より、その若者の個別性にかかっている。たとえば、もともとテンションの低い子が、その場の雰囲気で急に変わることはまずない。長い時間をかけて順応していくものでもない。それは「生き生きしている・していない」の話でなく、その子の個性であり、その子らしさの話であろう。


■「クリスチャン高校生」でなく「高校生」

 たぶん「クリスチャン高校生」をどうにかしようと考える前に、それが「高校生」であることを理解した方がいいと思う。

 実際の高校生を見れば簡単にわかることだけど、いろいろな子がいる。部活動だけ見ても、運動系と文化系で全然人種が違う。前述したテンションの違いも大きい。陽気と陰気、ポジティブとネガティブ、おしゃべりと無口、外交性と内向性、醤油系と塩系など、いろいろな要素が複雑に絡み合って、その子を形成している。そこに趣味や関心事、価値観など加わり、その子だけの個別性が生まれる。

 だから、前述のヒャッホーな雰囲気が好きな子もいれば、嫌いな子もいる。オーソドックスな礼拝で「つまらなそう」に見える子が、実はそうでなく、自分なりの安心感を得ているかもしれない。親に強いられてでなく律義に教会に来る子には、そういうタイプもいると思う。そういう子はべつに皆で騒いでヒャッホーして「生き生き」したい訳ではない。その子の「生き生き」は、また別のところにある。

 そういう個別性をもった人間が、クリスチャンという側面も持っている、と考えた方がいい。

 また高校生は人生の中でも多感な時期で、いろいろ葛藤も多く、ある意味「苦しい」期間だ。もちろん楽しいことも面白いこともあるけど、人に言いづらい悩みや困難もあって、元気そうな子でも人知れずもがいている。そこに「神との関係」とか「牧師との関係」、「クリスチャンの先輩との関係」も絡んでくるから、なかなか大変だ。「クリスチャン高校生」だから、一般の高校生より恵まれている、神様がいるから心強い、なんてことはない。むしろ逆だ。ただでさえ自分の葛藤にどう折り合いをつけたらいいかわからないのに、神様との関係も絡んできて、ますますわからなくなる。
 というのが、クリスチャン高校生の見えないホンネの部分にある、と私は思う。もちろん個人差はあると思うけど。

■「クリスチャン高校生」特有の影

  という訳で、(人間だれしもそうだけど)クリスチャン高校生は外側から見えない部分でいろいろ抱え込んでいる。
 で、そういう子たちが「クリスチャン高校生の集会」に参加すると、どうなるか。ほとんどの場合、「良いクリスチャンでいないと」という心理が働く。なぜなら神様は絶対に正しく、私たちを正しく導き、試練から脱出させ、栄光から栄光へと進ませる、だから悩むことはない、と教えられているからだ(それ自体は間違っていない)。だから「悩んでいる自分」や「悪いことを考えてしまう自分」を晒すことが憚られてしまう。そしてクリスチャンらしい発言、無難な発言、先輩が喜びそうな発言に終始してしまう。でもそれは悪意あるウソではない。そうせざるを得ない、彼らなりの防衛機制なのだ。

 そしてそれと同じ防衛機制は、前述のヒャッホーな若者たちにも働いている。彼らは見た目には元気で大騒ぎしているけど、本質的には同じように悩みや葛藤を抱えていて、実は苦しんでいる。そして先進的な礼拝で叫んだり泣いたり、牧師が喜びそうな姿を見せることで、自分の居場所を保っている(もちろん本気で神様に向かっている側面もある)。

 だからヒャッホーな教会でもオーソドックスな教会でも、若者の本質的な部分は何も変わっていない。
「元気に騒いでいる」から「生き生きしている」というのは、実は本当ではないと思う。彼らの影の部分、と言うより彼らなりに「気を遣っている部分」を理解しないと、「生き生き」というのはどんどん遠のいていく。

「クリスチャン高校生」の「生き生き」の様子を、一括りに扱うことがそもそも不可能だろう。その「生き生き」の種類は、子供の数だけあると言えるからだ。だから元気に賛美して泣いて祈って熱く抱き合って、みたいなステレオタイプな「生き生き」を全員に押し付けないことから、始めないといけないと思う。

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