「神の側」vs「悪魔の側」という構図に「中立」という立場をくわえてみたら

2016年5月20日金曜日

雑記

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キリスト教系の季刊誌『ミニストリー』の2016年5月号に、「『女神転生』にみる千年王国思想」という記事があった。懐かしさもあって、興味深く読んだ。内容には触れないけれど、日本文化における「千年王国の受け取られ方」が、時代と共に変遷している、という切り口。興味のある方は書店等へどうぞ。

 で、今回はその記事に触発されて考えたことについて書く。でも本当にどうでもいい話なので、たぶん何の役にも立たないと思う。

・『女神転生』というビデオゲームについて

 まず簡単に説明すると、『女神転生』は20世紀末に流行ったビデオゲームのシリーズである。RPG形式で、ドラクエとかFFとかに比べてダークでシリアスな展開が売りだった。崩壊後の東京が舞台で、コンピュータープログラムで「悪魔」を召喚したり会話したり仲間にできたりして、いろいろな敵と戦い、終末的世界の中、主人公は絶えず何かを選択していく。その選択によって最終ボスが変わり、エンディングも変わる。けれどどのエンディングも「これで良かったのか」という疑問を残す。

 この「悪魔」というのは、いわゆるキリスト教的世界観の悪魔という意味ではない。もちろんそれも含むんだけど、もっと広く、仏教の神々とかヒンズーの神々とか、ヨーロッパの神話上の神とか妖精とか、日本に古くから伝わる魑魅魍魎とかも含んで、かつキリスト教で言う天使たちもそこに数えられている。つまり、「人間でない超自然的な存在」は全部「悪魔」として括られている。世界の宗教のごった煮的なゲームだ。

 またこのゲームの重要な要素として、主人公が選択できる「属性」がある。「LAW(秩序)」と「CHAOS(混沌)」と「NEUTRAL(中立)」だ。
 この属性の分け方はキリスト教的で、「LAW」とは創造主なる神の側、「CHAOS」はサタンをリーダーとする悪魔の側である。そこに第三の勢力として存在するのが「NEUTRAL」で、これは神にもサタンにも属さない立場、となっている。

 この「神にもサタンにも属さない立場」というところで、きっと熱心なクリスチャンの反発を招くと思う。聖書的価値観で言うと、「一緒に集めない者はちらす者」という訳で、神に属さない者は悪魔の側の者、ということになるからだ。神の側でないなら中立も何もない、というのが一般的なクリスチャンの考え方だろう。

・神とも戦い、サタンとも戦う「NEUTRAL(中立)」

 しかしゲーム上では、この「中立」が成立する。主人公は天使とも悪魔とも戦うことで、「中立」という属性をキープしていく。そして終盤のある時点で属性変更ができなくなると、この「中立」の主人公は神と戦い、サタンとも戦うことが避けられなくなる。神も悪魔も全部滅ぼして、人間だけの世界をもたらす、というのが「中立」のエンディングだ。

 ところで「神を滅ぼすなんて!」みたいな反応はご遠慮いただきたい。ただのゲームの話なので。

 でもこの「中立」という存在が、今回なんとも考えさせられたポイントだった。

 この「中立」とは、いわゆる平和主義でなく、民主主義でもない。「悪魔」という侵略勢力と戦い、「神」という侵略勢力とも戦う。「神の側」も「悪魔の側」も受け入れない。どちらか一方の極に振れない。あくまで自由意思を貫く、という立場だ。熱心なクリスチャンからしたら「それこそ悪魔の側だ」「悪魔の策略だ」という話になるだろうけれど、私はそうは思わない。

 と言っても「中立」の立場に立ちたいという話ではない。私はあくまで創造主なる神を信じているし、神を礼拝する者でありたい。そうでなく私が言いたいのは、どちらの側にも組しない中立的な視点でものを見るのも大切だ、ということだ。

・不適切な対立の構図

 ちょっとわかりづらいと思うので、言い方を変える。「神の側」と「悪魔の側」という表現だと、おそらく誰もが「神の側」を選ぶし、そこで迷う人はほとんどいない。クリスチャンであれば。でも話はそんな単純ではない。私が今回「中立」という言葉から想像した構図は実はこうだ。「教会の側」と、「教会が作り出したイメージとしての悪魔の側」という構図。

教会の側
vs
教会が作り出したイメージとしての悪魔の側

 教会の言うことが絶対だ、教会のやることが絶対だ、私たちは間違いなく「神の側」だ、という教会絶対視が一方にある。そしてもう一方には、その教会が作り出した「悪魔とはこんな存在だ」「悪魔の手口・策略はこうだ」「悪魔に騙されないようにしなさい」という悪魔像がある。つまり、

教会絶対視
vs
(教会が作り出した)悪魔像

 という構図の中、クリスチャンたちは当然のように「教会絶対視」の側に立ち、イメージとしての「悪魔像」に敵対している、ということはないだろうか。でもそれは、本来的な「神の側」vs「悪魔の側」とは全然関係がない。むしろそういう単純な構図と思い込んでいて、実は「神」が「教会」に、「悪魔」が「悪魔像」にすり替わっている、ということはないだろうか。

 つまり絶対的に正しい「教会の側」があり、その教会が主張する「敵」としての「悪魔」が存在し、信徒はその中で「教会」に仕え、「悪魔」に立ち向かうことが「聖書的」とされている。
 なんかややこしい話かもしれないけれど。

 だからちょっと中立的な立場に立ってみて、「神の側」と思っていることが本当に「神の側」に属することなのか、「悪魔の側」と思って敵対していることが本当に「悪魔の側」に属することなのか、考えてみるといいかもしれない。

 そしてそれは本当の意味で「中立」なのでなく、結果的に「神の側」 に立つ手助けになる、と私は思う。

 という訳で、本当にどうでもいい話なんだけど、最後まで読んでいただいて本当にありがとう。

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