2016年5月18日水曜日

ナンチャッテ「異言」のおかしさについて

 記事として書いたつもりが書いてなかった「異言」について。

 去る5月15日が聖霊降臨祭だったせいか、SNSで「異言」の話がチラホラ出ていた。聖書のこの箇所は原語だとこういう意味だとか、この箇所は××と解釈できるとか、研究熱心な方もおられるようだ。

「異言」は奇蹟とか癒しとかと同じで、議論が分かれるトピックだろう。たぶん立場によって賛否両論がハッキリ分かれる。それは他のトピックと同じように、もはや個人の信条みたいになっているかもしれない。としたら、あまり議論する意味もないように思う。結論が出ないから。

 それでも私が書こうと思うのは、そういう議論に決着をつけたいからでなく、最低限の注意喚起をしたいからだ。
 聖書解釈が分かれるのはある意味当然だろう。多様性があるのは問題ではない。問題は、多様性では片づけられない、実害を伴うケースがあることだ。そのあたりは注意喚起しておくべきだと思う。

■異言について

「異言」は使徒行伝2章とか、コリント第1の12章以降とかに多く書かれている(ちなみにダニエル書に出てくる「神の指によって書かれた文字」も、「異言」として分類されると思う)。
 それらの箇所をいちいち挙げないけれど、「異言」についてまとめるてみると、だいたい次のようになると思う。

・自分では理解できない言語(外国語あり)を、何の練習も学習もなく、にもかかわらず発音やイントネーション等において完璧な状態で、話すことができる。
・自分で発しているにもかかわらず、その言語の意味を理解することができない。けれど「解き明かしの賜物」によって意味を理解することができる。
・あるいはそれは完璧な外国語なので、その言語を使う人間が聞けば、当然ながら理解できる。
・それは聖霊によって「話させられる」状態だけれど、止めたり始めたりは自分でコントロールできる(つまり秩序を保つことができる)。
・異言は順番に話すべきで、1人は解き明かしをするよう勧められている。解き明かす者がいない場合は、教会では黙るべき(自分だけで祈るべき)とも勧められている。
・初心者や未信者には躓きになると注意されている。

 1つ断っておくと、上記は聖書から読み解ける「異言」についてまとめたものであり、現代にもそれが起こり得るとか、求めれば必ず「異言」が与えられるとか、そういう話をしているのではない。
 むしろ私は、現代において「異言で祈れます」とか「異言が与えられました」とか言うクリスチャンを懐疑的に見ている。その理由を明確にする為、昨今の教会で語られている「異言」の現状について次に述べる。

■現在「異言」を語る(一部の?)教会で言われていること

「異言」を強調し「異言」で祈る(一部の?)教会では、次のようなことが言われている。

①はじめは他人の「異言」を真似して言ってみなさい。そうすれば与えられます。
②「異言」で祈れば祈るほど、あなたの中に霊的力が充満し、霊が強くなり、他の賜物も発現していきます。
③「異言」が与えられることは「新生」を意味します(つまり「異言」で祈る人は新生していて、そうでない人は新生していない)。

 と、いうようなことが公然と語られていて、初心の人なんかは「異言が与えられるように」集中的に祈られる。初心の人はだいたい、遅かれ早かれ、次のような目に遭う。

 礼拝や集会の最中、牧師やリーダーたちに囲まれ、周りで「異言」で「ワラワラ」祈られ、腹をグイグイ押され、「溢れよ!」とか叫ばれる。耳元で「求めなさい!」「真似しなさい!」「唇を自由にしなさい!」とか言われる。そんなのが10分も20分も続く。勢いに任せて「ワラワラ・・・」とか言ってみると、これが案外言えて、「腹からとめどなく溢れてくる」と言われれば、そんな気もしてくる。それで牧師か誰かの真似をして「ワラワラ」やっていると、なんか自信がついてきて、「これが異言かー」と感動する。ハイ、異言が与えられました、ハレルヤ、である。

 あとは上記の②繰り返し言われるので、ことあるごとに「異言」で「ワラワラ」祈ることになる。それで「ワラワラワラワラ」やっていると、そのうち「ワラワライー、ワラワラヤー」とかちょっとずつ変形することもあって、「お、異言が増しくわえられたハレルヤ、主に感謝」とかなる。

 それが現状である。
 しかしよく考えてみればわかるんだけど、①も②も③も聖書のどこにも書いておらず、何の根拠もない。②なんかは『次元』で有名(?)なチョー・ヨンギの受け売りでしかない。同氏は「早天で異言で2時間祈ると、午前中は祈りの力で充満している」とか言ってたけど、じゃあ午後はどうすんの? 午後のために午前中にまた2時間祈るの? でもその理屈でいくと、午後も2時間、夜も2時間祈らなきゃダメじゃないの? という話である。いずれにせよ、聖書を根拠にしていない。

 こういうのは「異言」のみならずいろいろなトピックでみられるけれど、聖書がどう言っているかより、指導者(牧師など)がどう言っているかが重要になってしまっている。指導者に対して従順な信徒であっても、神に対しては従順でない。それだと本末転倒なのでは。

■おかしな「異言」に対するツッコミ

 どこかの教会で正しい「異言」を語っている人がいたら教えてほしいけれど、その場合、最低でも以下のツッコミどころをクリアしている必要がある。クリアできないなら、それはおかしな「異言」である。本人がどう言ったとしても。

・言語として成立していない

 「異言」は「言語」であるはずだ。だから日本語や英語と同じように、体系化された文法や文型があり、文字や単語が存在し、それらがつながって文節となり、文となり、文章を構成しているはずだ。
 しかし昨今のナンチャッテ「異言」をみると、上記の「ワラワラ」みたいな、2つか3つくらいの音の組み合わせでしかないことが多い。あるいはもう少し文字数が多くても、たとえば「アジャバラアジャバラ」とか、結局は同じフレーズの繰り返しでしかない。同じ言葉を延々と繰り返す、詠唱みたいな感じだ。

 でもそれだと、一つの体系的な「言語」としては明らかにおかしい。たとえ「ワラ」にいくつかの意味があるとしても、その「ワラ」だけで全ての表現をまかなえるはずがないのだ。
 たとえば日本語の場合。「眠る」という動詞には、「睡眠する」とか、「死ぬ」とかいう意味がある。けれどその「眠る」という動詞が、同時に「神」という名詞になったり、「とても」という副詞になったり、「幸せ」という形容詞になったりはしない。だからその「異言」がちゃんとした「言語」であるなら、「ワラワラワラワラ」を繰り返すだけで、ある一連の文章を作ることなどできないはずだ。

 ダニエル書5章に出てくる、神の指によって書かれた文字は「メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン」で、それぞれの言葉に固有の意味があり、全体で一つの文書を構成していた。だから、たとえば「メネメネメネメネ・・・」と繰り返しても、全然意味をなさない。

 ひるがえってナンチャッテ「異言」の現場をみると、1時間でも2時間でも「ワラワラワラワラ」繰り返している。これは上の例で言えば、「眠る眠る眠る眠る」と延々と繰り返しているようなものだ(ジョジョかよ)。それが仮に正しい「異言」だとして、そんなの1時間も言い続けて何の意味があるの?

 聖書に書かれている「異言」は、聞いて理解できないにしても、ちゃんとした「言語」なのだ。だからその一文一文に、それぞれ別々の意味がある。同じ音をずっと繰り返すことでいろいろな文章を作れるとしたら、それは言語ではない。つまり「異言」ではない。

・おかしな「解き明かし」

 これは上の話に直結するけれど、時々「私、異言の解き明かしができます」とか言う人がいる。そして、たとえば誰かの「ワラワラ」という異言を聞いて、こんなふうに言う。

異言の人「ワラワラワラワラ・・・」
解き明かしの人「今、スウェーデンのために祈っています」
異言の人「ワラワラワラワラ・・・」
解き明かしの人「今は北朝鮮のために祈っています」
異言の人「ワラワラワラワラ・・・」
解き明かしの人「うん、今は神の深い愛を称えています」
ウソつけ! 以外の言葉が出てこない。

・その「異言」が霊的力を充満させるなら

 ナンチャッテ「異言」を熱心に何時間も続ける人がいるけれど、そういう人たちが霊的力を充満させているとするなら、その「充満具合」をどう可視化し、どう判定したらいいだろうか?
 答えは簡単だ。その人がどんな人物になるか、を見ればいい。霊的力で充満しているなら、当然「聖霊に満たされて」いるだろうから、「御霊の実」くらい備えるだろう。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制、という項目でそれぞれ充実してきて、月日を追うごとに、すごい聖人君主になっていくと思う。そうだとしたら、「霊的力で充満している」と言えるだろう。

 でも現状を見る限り、ナンチャッテ「異言」を祈る人たちにそういう傾向は見られない。ナンチャッテ「異言」で10年も20年も祈ってきたはずの牧師たちが、金銭問題や女性問題を起こして何人もトンズラしている。またそういう問題を起こさないまでも、とても人格者とは思えない発言を繰り返す牧師もいる。だから「異言」で沢山祈ったから・・・というのは、私には全然リアリティのない話だ。

 という訳で「異言」についてまとめてみた。
 補足があればまた書いていく。

3 件のコメント:

  1. 異言はGLAや幸福の科学でもありますよ。新興宗教系の宗教団体は、なぜかこの異言を好む傾向があるのかもしれませんね。幸福の科学の大川隆法教祖の霊言本の中にも、どのページを開いても異言だらけで、あきれるような本があるくらいです。
    昔の人についてはわかりませんが、現代人でこんなバカなことをやっているのは、新興宗教系の宗教をやっている人だけといってもいいでしょう。
    よって異言で霊的充満なんかありえませんね。もし充満するものがあるとしたら、それは電波の充満くらいのものでしょうよ(笑)。

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  2. http://socj.org/swecc/meeting.htm の教会も異言する人多いってきいていたけど、弟子訓練派から変わったらどうなるべ
    異言というより、売れない占い師が、人の心を買ってに作って言いだして洗脳してるだけに思われたが。こんなのプロテスタントと名乗ってほしくない

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    1. 名乗ってほしくないといってもねえ・・・
      プロテスタントは自己申告の世界なので、何でもありの場所ですのでしょうがないと思いますよ。
      「売れない占い師・・・」はいいですね(笑)。確かにそうでしょう。
      新興宗教系の宗教団体の教祖が、占い師上がりというのはよくある話ですよ。有名なのが念仏宗無量寿寺でしょ?あそこの開祖ももともとサイコロ占い師上がりでしたしね。。
      新興宗教系仏教でも占い師上がりが教祖になっているわけですので、当然新興宗教系キリスト教でも、占いの業界ではたいしてぱっとしなかった連中が、キリスト教系の新興宗教を開業して、教祖になって一発あててやれみたいな、山師的なのがいても、不思議でもなんでもないじゃないですか。

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