神の愛と予定論をめぐる、クリスチャンの自己中心性について

2016年5月15日日曜日

信仰に見せかけた…

t f B! P L
■映画『神は死んだのか』で気付いたこと

 少し古い話になるけど、2014年のアメリカ映画『神は死んだのか』(God's not dead)を公開当時に劇場で観た。その内容を今でも時々思い出しては、いろいろ反芻している。で、最近ふと気づいたことがあるので、それについて書いてみたい。



 この映画のメインストーリーは、クリスチャンの大学生が無神論の哲学教授に対して「神の存在」を証明しようとするもの。群像劇的な作りになっていて、同時にいろいろなエピソードが進行していく。その中の一つに、デイヴ牧師とジュード牧師のエピソードがある。

 デイヴ牧師とジュード牧師が、2人で車で出掛けようとする。しかし車が故障したり、借りた車が故障したり、教会で何だかんだトラブルが起きたりで、なかなか出発できない。そうこうするうちに半日たち、1日たち、数日たってしまう。そして映画の終盤、ようやく2人は出発できる。しかし今度は目の前で交通事故が起き、人がはねられるのを目撃する。2人はすぐ救助に向かう(結果やはり出発できない)。

 このはねられた人というのが、先の哲学教授である。瀕死の重傷で、すでに虫の息。2人の牧師が路上でその死を看取ることになった。デイヴ牧師が手短に福音を語る。すると無神論だった教授が、死に直面し、ついに神を信じ受け入れる。
 要は、死ぬ前に救われて良かったね、牧師たちが出発できなかったのはこの為だったんだね、というような話。

  このエピソードの背後には、予定論とか運命論とかいうものがあって、そこに神の愛が絡み合っている。つまり、神は無神論者の教授さえも愛しており、なんとか救おうとしている。しかし教授はその夜、交通事故で死ぬことになっている。だからそこに2人の牧師を居合わせようとして、車を故障させたりトラブルを起こさせたりで出発を遅らせた。そして瀕死の教授に福音を語れるよう、お膳立てした。

 という訳で、全てのことは起こるべくして起こった、すべては神のご意志のまま、ハレルヤ、アーメン、というお話。

 ちなみに言うと、その夜はクリスチャンバンド『ニュースボーイズ』のライブがあり、クリスチャンの登場人物たちが盛り上がって賛美している。そのすぐそばの道路で教授が死んでいく、という構図。まさにクリスチャンの「勝利」と無神論者の「敗北」を提示している。まあクリスチャン映画だからそうなるよね。

 私は映画は映画で単純に楽しめて感動できる方なので、この映画も感動しながら観れた。特にムスリム家庭に育った女子大生がクリスチャンになり、そのことが親にバレて家を追い出されるくだりは心が痛かった。

■「神の愛が絡んだ予定論」が全部「自分の為」というのは

 で、何が言いたいかというと、この「神の愛が絡んだ予定論」について。
 神は私を愛しておられる。だから私の周囲のいろいろな状況を操作して、私に最善を成してくれる。たとえ悪いことが起こってもそれは一時的で、最後は全てが益とされる。
 つまり全ては起こるべくして起こるし、それは全部「私」の為なんだ、ということ。
  これは昨今の福音派、聖霊派あたりでよく言われることだ。たとえば、

「今この試練にあっているのは、きっと私が何かに気付く為なんだ」
「あの試練の意味は××だったのだ。結果私は幸いだった」

 みたいな感じ。
 神が全てを益にして下さることも、試練とともに逃れの道を用意しておられることも、聖書に書かれているからその通りだと思う。けれどこの場合の用法は全部「私が」「自分が」となってしまっていて、結局自分中心な発想から抜け出せていない。全てが自分を中心に回っている、神は自分の益のために状況を都合よく操作してくれる、という訳で、要は自分のことしか眼中にない。なんだかんだ綺麗事を言っても、それは「自分中心クリスチャン」なのだ。

 ちなみに言うと、他のクリスチャンに対して「この試練は必ずあなたにとって益になります」というのも、根っこは同じ。「自分の為」を「あなたの為」に置き換えているだけで、根本的な発想は同じ。

 少女マンガのヒロインの典型的な敵役として、「学園の才女」が出てくる。彼女は成績優秀でスポーツもできて、生徒会長とかやってて、しかも父親が学園の理事長ときてるから、何でもやりたい放題だ。気に入らないヤツがいれば「お父さん」に訴えて、強引に退学させることもできる。つまり、学園のことは何でも自分を中心に回っている、と信じている。状況は違うけど、自分中心クリスチャンはこれとあんまり変わらない。

 あるいはコロンブスの時代に、天動説を主張した教会の考え方にも似ている。太陽も星もこの地球を中心に回っている、海の果ては断崖絶壁だ、地球が丸いなんて馬鹿なことがあるか、と彼らは主張した。けれど結局全部間違っていた。真相は地動説であって、地球の方が(つまり自分たちが)太陽を中心に回っており、地球は丸かった。

 彼らの間違いのもとは、自分の視点から見えるものが全てだ、と信じていた点だろう。早い話が自分中心。中心が他にあって、自分たちの方が回っている、とは考えられなかった。

■「自分の為」から「他者の為」へのシフトが必要では

 私は映画『神は死んだのか』を観て感動したんだけど、何か違和感のようなものも感じていた。そしてそれはきっと、このクリスチャンの側の「自分中心」という考え方に対してだったろうと思う。それはある登場人物からでなく、この映画全体から感じられた。

 ではどうするべきかと言うと、私たちは「自分の為」から「他者の為」へと、ちょっとでも考え方をシフトしていく必要があると思う。自分中心なのは人間の根本的な性質であって、変えられないだろう。でも私たちには考える力があるので、いつも何かを選択することができる。つまり「自分の為」を考えるか、「他者の為」を考えるか。

 そしてそのどちらがキリスト教の理念を実現するものかは、いちいち説明する必要はないだろう。

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