「神の導き」に関する、甚だしい勘違いについて

2016年5月1日日曜日

「神の導き」に関する問題

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 しつこいようだけれど、また「神の導き」について。

「あー神様、今日も一日、私を導いて下さい」

 という類の祈りをする人がいるけれど、私はそういう祈りはしない。
 なぜなら、これについては自分でもウンザリするくらい何度も書いているんだけど、神は、あれしろこれしろと細かく指示を出して人間を支配する方ではないからだ。しいて言えば、神が与える「導き」とは、原理原則とか、方向性とか、考え方とか呼ばれる種類のものだからだ。

 つまりルールを示し、知恵や力を与えて(もうすでに与えられている)、「じゃ、やってみなさい」というのが神の人間に対するスタンスなのだ。と私は信じている。

 難しい話だろうか。
 スポーツ、たとえばサッカーだと、選手たちは基本的に監督がたてた戦略に従ってプレイする。でも監督はピッチの外にいて、一緒にプレイする訳じゃない。だから指示も大雑把だ。はいそこでパス、お前はそっち、お前はあっち、はいこのタイミングで秒速何メートルのスルーパス、はいお前は10メートル走った位置でボールをもらえ、はいシュート、シュートはボレーじゃなくてオーバーヘッド、狙うのはゴールポストの右上30センチ、なんて細かな指示は出さない。そうでなく、監督の指示というのは、基本的にこういうポジションで、こういう戦略で、相手がこうだったらこんな対応して、みたいな「戦い方」について言っている。選手たちは日頃の練習とか、監督からいつも言われることなんかから、監督の言わんとすることを察してプレイするのだ。
 事細かな指示をもらうのではない。

 ここ、重要なとこ。

 つまり、事細かな指示をもらわなければ戦えないとしたら、その選手は、監督の思考や願望を何もわかっていない。

 これを聖書なりクリスチャンなりに当てはめるとこうだ。
 神様は、私たちにどう生きてほしいかを聖書を通して語りかけている。
 私たちはその意図を慎重に汲み取って、神の願う「生き方」をするよう召されている。

  だからぶっちゃけ、神が願う「生き方」に反しないなら、AでもBでもCでも何でもいいのだ。神はある個人をつかまえてじきじきに「Aを選べ」なんて強制しない。だって「信じた通りにしなさい」とも書いてあるじゃん。

 だから熊本地震の被災地に行くべきでしょうか? なんて祈りは意味がない。神の答えはイエスでもノーでも待てでもないからだ。神は逆に問いかけるだろう。「あなた自身はどう考えていますか?」
 すなわち、「隣人を愛そう」と思って熊本市に行くのも、アフリカに行くのも、近所の老老介護の家庭を訪問するのも、全部「隣人を愛する」という意味で神の御心なのだ。 どれか一つだけが御心なのではない。

 また、「神の導き」に対する私のもう一つの考え方はこれだ。

 神はいつも、私たちを導いておられる。

 いつも。私たちが願おうと願うまいと、いつも。だって聖書は「あなたを導く」って言ってるじゃん。
 だから「導いて下さい」なんて祈らなくていい。たぶん、「導いてるけど何か?」と神に聞き返されるだけだから。

 それとも、神様に「私を愛して下さい」とか祈りますか? 神様はすでに「愛している」って言ってますけど? 聖書読んでないんですか? 

  一つ例を挙げると、キリストと一緒に十字架に付けられた、2人のうちの1人。最後の最後になってキリストを神と認めたほうの人。彼は磔にされるくらいだから相当なワルだったと思う。たぶん神様とか聖書とか関係なく生きてきただろう。だから「神の導き」なんてまったく求めてなかったはずだ。でも最後の最後になって、神を認めた。そして「パラダイスにいます」という言葉をもらった。

 じゃ、彼はまったく神を求めてなかったけど、結果的に神のもとに導かれた、ってことになるよね? いったい誰が彼を導いたの? 悪魔? いやいや神様でしょう。ってことは神様は、結果的に彼の生涯をすべて導いていた、ということになる。
 彼自身は、導かれたいなんて思ってなかったろうけど。

 という訳で結論。
 神様は私たちに「生き方」を示しており、行動において細かく導くことはしない。
 神様は私たちの全人生をすでに導いておられる。

 だから、「あー神様、今日も一日、私を導いて下さい」みたいな祈りをみたら、あーこれが噂の痛クリかーと思ってスルーするが良し。

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