ブログを書く理由についてちょっと整理してみた

2016年4月9日土曜日

私事

t f B! P L
 最近気づいたのだけど、SNSで粘着されている。
 少し、追っかけられてるアイドルみたいな心境でもある(ちっとも嬉しくないけど)。
 どうするべきかしばらく検討してみたけれど、今のところ無視が一番のようだ。明らかな名誉棄損があれば、スクショを保存して警察に相談し、対象アカウントの個人情報を開示させて訴訟を起こすしかない。けれど現段階ではそこまでする必要はなさそうだ(必要があれば躊躇なく実行する)。

 経緯はと言うと、私が普段からここで、あるいはSNSで書いている「毒」をお気に召さないアカウントが最近現れて、しつこくケチを付けはじめた。ブロックしても相手は私の投稿を見ていて、何やかやと言っているらしい(見ていないから詳細はわからない。別の人が反撃してくれたみたいだけど)。
 しかしケチと言ってもいわゆる「エアリプ」で、私に直接何か言ってくることはない。文句があるなら直接言えばいいのにね。リアルではコミュ障なのかな。

  私がキリスト教信仰について吐いている毒は、ある意味すごく極端なんだろうと思う。というのはカルト的教会の、どう考えても「おかしい」事態について書いているから、カルトっぽくない教会の人からしたら、「何をそこまで」みたいに思うのかもしれない。私としてはかなり危機感をもって書いているけれど、そういう警告を必要としない人からしたら、「批判してるだけ」と映るのだろう。それはそれで仕方がないとは思う(しかしそこには、批判と中傷の混同がある)。

 時々、そういう私に対して「神様はね・・・」とか「信仰とは・・・」とか上目線なご教示を垂れる人がいるけれど、何だかなあと思う。べつにそれらを否定する気はないし、たぶん私の言葉や説明が足りないからってのもあると思うんだけど、話がズレていて、失礼ではないかと思う。ちゃんと文脈を読んで発言してほしいんだけど。

 私は信仰について模索している訳でもなければ否定している訳でもない。私が書いているのは「正しい信仰とは何か」でなく、「間違った信仰とは何か」の方だ。だから「正しさ」について議論するつもりはない。そういうのは偉い人たちがしたらいい。そうでなく私がしたいのは、○○は間違っていてひどく人を傷つけるものだから気をつけてほしい、というような話だ。だから「立派な」クリスチャンの方々の、「ありがたい」ご教示の数々は、私の主張とはそもそもベクトルが違う。

 私はカルト的教会や、それに傾きやすい信仰の在り方について書いている。そうでない教会やクリスチャンについては何も言っていない。だから私の発言で腹を立てるのは基本的にカルトっぽい人たちか、あるいは原理主義的な人たちだと思う(カルトっぽい=原理主義、なのかもしれないけど)。

 カルトっぽい人たちには次のような特徴がある。

・自分の信仰が唯一絶対正しいと思っている。
・他の信仰の在り方、他の意見に耳を貸せない。
・どれだけ理路整然と説明されても「こいつは真理がわかってない」で一蹴する。

 だから基本、言っても無駄なのだ。彼らが気付く唯一の方法(と私が思うもの)は、自分たちが火を被ることだ。
 映画『セブン』の犯人の名言を借りるなら、「肩を叩くくらいじゃダメだ。ハンマーで殴りつけないと」
 もちろんそれは比喩であって、ハンマーは関係ない。要は、「自分が痛い目を見ないとわからない」ということ。

 ただ、ちょっとやそっとの痛みでは気付かない、というのもまた事実。「神様の要求だから」と言われて幾晩も徹夜で奉仕するとか、国民健康保険と国民年金の支払免除申請を数か月おきに区役所に出しに行くとか、明日の食事代がないと悩んで夜を過ごすとか、奉仕がうまくできなくて怒鳴られたり殴られたりとか、そういう目に遭っても「これは信仰の試練だから・・・ハレルヤ!」みたいな話になってしまう(ダメだこりゃ)。

だからここで色々な酷いケースを紹介して、説明しているのである。それで少しでも多くの人に読んでもらって、少しでも考えてもらえれば、と願っている。その辺に関して私は真剣である。

その意味で、冒頭で紹介した粘着クンも、「中傷」という形ではあるが私の記事を紹介してくれるので、ありがたい側面はある。利用できるものは何でも利用してやらないとね。

という訳で私は悪意あるエアリプも中傷も全然気にしていないので、好きなようにやってくれればいいと思う。ただ名誉毀損のレベルになったら法的手段に出るので、その辺の覚悟が必要なのは明言しておく。ネットは全然匿名ではない。

また個人的には、そういう粘着や中傷にどんな得があるのか全然理解できない。時間の無駄でしかないと思うし、そんなことに時間を費やすには人生は短すぎると思うのだけれど。

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