クリスチャン的「癒し」についてアレコレ

2016年3月9日水曜日

「癒し」に関する問題

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 クリスチャン的「癒し」については折に触れて書いてきたが、最近また気になることがあったので、まとめ的に書いてみたい。
 身体的癒しと精神的癒しとでちょっと種類が違うので、分けて書いてみる。

■身体的癒し

・無責任に語られる「癒し」

 いわゆる体の病気とか怪我とかの癒し。聖書の一部、たとえば使徒行伝5章とかにこの癒しが出てくる。こういうのを見て単純に「現代にも癒しはある」と言う人たちがいる。私も癒しそのものを否定する気はない。けれど、だからと言って「どんな病気も癒されます」と強調するのは違うと思う。

 なぜなら、風邪とかインフルエンザとかの「放っておいても治る病気」以外の病気、たとえばガンとか複雑骨折とか、そういうのが「超自然的に」「完全に」「即座に」「癒された」というケースを、実際に目にする機会がないからだ。
 私は長い間、こういう意味で「最前線」の種類の教会にいた。いろいろなゲストや集会を見てきた。けれど、ついぞ一度も癒しが起こったのを見たことがない。もちろん癒しの話は沢山聞いてきた。乳ガンが癒された、肺ガンが癒された、歩けなかったのに歩けるようになった、辺境の村で死にそうだった人が奇跡的に回復した、とかイロイロ。

 しかし実際に教会で目にするのは、そういう話を聞きつけて教会にやって来た(あるいは知人に連れてこられた)本当の病人、末期ガンの患者とかが、散々祈られた末、結局癒されずそのまま亡くなった、というケースばかりだ。つまり本当に癒しが起こってほしいケースで、一度も癒しが起こったことがない。噂話だけは沢山あるのに、その実体はどこに行っても見られない。癒されたという話を聞いても、それがいったいどこの誰で、どこに行ったら会えるのか、どこに連絡したら直接話を聞けるのか、まったくわからない。皆口々に「癒しはあるよ」「祈れば癒されるよ」と言うけれど、その実物は誰も見たことがない。ほとんど都市伝説のレベルだ。

 だから「癒しはあるよ」 と言うのは構わないけれど、実際に「癒し」を必要としている病人をその気にさせて教会に連れてこさせ、癒されるのを期待させるのはやめてほしい。体がキツイのに何度も教会に足を運び、今度こそ、今度こそ、と頑張るけれど毎回何も起こらず、次第に病状が悪化し、入院することになり、教会に来られなくなる。そして最期の時を迎える。そのとき何と声をかけるつもりだろうか。「癒し」を強調するなら、そういうところまで責任を持たなければならない。

・イロイロな条件がつけれられる「癒し」

  あるいは「癒されないのは○○のせいだ」と言う人たちがいる。祈りが足りないからだ、信仰が足りないからだ、誰かを赦していないからだ、過去の罪があるからだ、先祖の罪があるからだ、地域に罪があるからだ、とかイロイロな理由を挙げる。そして一日何時間祈れ、聖書を何章読め、過去の罪を洗いざらい告白しろ、先祖の罪を断ち切れ、地域の罪を断ち切れ、とかいう「苦行」の数々を強いる。それでも癒しが起こらないので、「まだ何か隠された罪がある」とか「今はまだ時ではない」とか、うまいこと言うけれど、結局癒されない

 それは「癒されたい」と心底願っている人の切実な思いを利用しているだけで、ハッキリ言って重罪だと私は思う。しかもそれだけでは飽き足らず、挙句の果てに天然ナンチャラ入りのジュースを飲めとか、祈りを込めたハンカチを買えとか、免罪符も真っ青なことをしれっと言うので呆れるほかない。癒しをチラつかせておいて、決してそこには到達させない。搾り取れるうちに絞り取る。完全に詐欺の手口と同じだ。

  聖書に長血の女の話があるけれど、あれと同様のことが今日もあちこちで起こっている。純粋なクリスチャンの皆さんには、よくよく注意してほしい。

・聖書が言っている「癒し」

 前述の使徒行伝5章では癒しが沢山起こっている。エルサレムの付近から大勢の病人が集まってきて、その全員が癒されと書いてある。この「全員」という部分が大切だ。つまり集まった人の全部が癒されたのであって、その信心深さとか祈った量とか、告白した罪の数とか断ち切った罪の数とか、そんなの全然関係ない。みなが癒されたのである。そこには何の条件もない。

 それと同時に言えるのが、いつもいつも癒されるのではない、ということだ。聖書全巻を見ても、癒しが起こっているのは部分的である。癒しを願ったのに癒されなかった、というケースもある。皆が皆ハッピーになっていない。我らがパウロ先生だって癒されていない。
 また、そこには明確なルールは存在しない。つまり「こうすれば癒される」という方法論は存在しない。言うなれば神の主権によるもので、人間がコントロールしていいものではない。ペテロだって、ずっと人を癒し続けた訳ではない。

 それを考えただけでも、「どんな病気も癒されます」なんて言っちゃいけないことがわかる。そんなことを真顔で言う人たちは、「聖書大好き」とか「これからディボーション♪」とか言っていても、そこに何が書かれているか、全然理解できていない。


■精神的癒し

 これは「悪霊追い出し」とか精神療法とかの話でなく、教会でカウンセリングとかインナーヒーリングとか呼ばれる活動のお話。
 書くキッカケになった記事がこちら。

「相談の乗り方を知らない人が福音伝道しようとしてエライことになってる気がするから具体案書いとく」
(存在の耐えられない軽さだとは思わない)

 要は、福音伝道だけが目的になってる人が、その過程で未信者の「お悩み相談」を受けると、大変失礼なことをしでかしてしまう、ということ。これは私が常々感じていて、でも明確に言語化できていなかったことをスパっと書いてくれた記事だと思う。すごく納得できた。

 また未信者相手だけでなく、クリスチャン相手にも、同様の「失礼なお悩み相談」がけっこう蔓延していると思う。相手の話をロクに聞かず、あるいは表面的に聞いただけで、

「その場合は○○すればいいよ」
「聖書は○○と言っているんだよ」
「あなたが○○できるよう祈ってます」

 とかいう一方的な「おススメ」で終わってしまう。悩みがさほど深刻でなければそれでも済むかもしれない。けれど深刻な悩みであればあるほど、そう言われて終了した時の失望感は深い。なんのために相談したんだろう、自分はこんなことを求めていたのか、という余計な葛藤が増えてしまう。あるいはクリスチャンって何だろうとか、これに付いて行けない自分がおかしいのだろうかとか、そういう見当違いな方向に誘導されてしまう恐れもある。そうなると百害あって一利なしだ。相談する前の方がまだマシだった。

 最近見たけっこうひどい例は、「死ぬのが怖い」と言う人に対して、「クリスチャンであれば死ぬのは怖くないはずです」とか答えているヤツ。だったら死んでみれば? と思ってしまう。相手が本当は何を抱えているのか、本当は何が言いたいのか、言語化できないものが何なのか、という肝心なことを完全無視して「言ったセリフ」しか見てない。これじゃ答える資格はない。答えてはいけないと思う。

 そもそも「牧会カウンセリング」とか「インナーヒーリング」とか、名前だけは仰々しいけれど、べつに専門の訓練をちゃんと積んだ人たちがやっているのではない。訓練を受けたにしても、その道からしたら非常に簡便なものでしかない。だから当然と言えば当然だけれど、すごく安易な形の「カウンセリング」しかできない。ほとんど「話を聞いて祈って終わり」だ。話を聞いてもらって祈ってもらったらスッキリする人なら、それでいいだろう。でもそれならそもそも「カウンセリング」は必要ない。礼拝後の「交わり」で十分だ。

 だからその手の「カウンセリング」は、精神的に本当に助けを必要としている人たちに対しては何もできない。だから相手が牧師だから、歴戦のクリスチャンだからといって何でも安易に相談すべきでない。
 でもそれ自体は悪いことではない。彼らはちゃんと勉強していないのだから、できなくて当然なのだ。
 問題は、彼ら自身がそれを認識していないことにある。「話を聞いてやって、祈ってやればそれでオッケー」とか本気で言ってる牧師もいるくらいで、カウンセリングなんて時間がかかるだけで簡単だ、くらいに思っている。そういう牧師には何も相談しない方がいい。

 という訳で、「癒し」についてはよくよく注意しなければならないと思う。いろいろ危険が多いからだ。下手に相談すると、問題を大きくしてしまうかもしれない。特に教会内とか、クリスチャン間とかでその危険が多い。困ったことだけれど、事実である。そのへんでクリスチャンは「さとく」あるべきだと私は思う。

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