クリスチャンを浸食する日本的「呪い」

2016年2月9日火曜日

「悪霊」の問題 映画評

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 珍しく日本のホラー映画『残穢-住んではいけない部屋-』を鑑賞した。



 いかにも日本的な「お化け」系怪談だった。過去の「怨念」とか「祟り」とか「呪い」とかが、土地や建物や人間を介して延々と連鎖している、というコンセプト。派手ではないがジワジワくる形の恐怖である。けっこう尾を引くかもしれない。

 ところでこういう「祟り」とか「呪い」とかの話とは縁遠いはずのキリスト教世界が、昨今は意外と繋がっているんじゃないかと私は思った。それについて、ちょっと考えてみたい。

 まずは映画『残穢-住んではいけない部屋-』(以下『残穢』)のあらすじを少し(ネタバレするので未見の方は注意)。

■『残穢』の簡単なあらすじ

 主人公は女性怪談作家と女子大生の2人。
 女子大生の引っ越し先のマンションで、夜な夜な奇妙な「音」がする。誰かがいるようだけれど誰もいない。怪奇現象ではないかと考えて、女子大生は怪談作家に相談する。
 2人で調査を進めると、その土地の暗い過去が、次々と判明していく。

・マンションが建つ前の家屋の住人は、「空間」を異常に恐れて家中にゴミを敷き詰め、その中で死んでいた。
・その前の家屋では奥さんが「赤ん坊の泣き声」に精神を犯され、首つり自殺をしていた。
・その前の家屋では女が密に妊娠と出産を繰り返しており、生まれた児をすぐに殺しては、軒下に埋めていた。彼女は「燃やせ、殺せ」という声を聞いていた。
・その前の家屋(大正時代)では三男が精神障害で座敷牢に閉じ込められていた。彼は「燃やせ、殺せ」といつも呟いていた。それは九州から継母が嫁いできてからのことだった。
・その継母の実家は九州で炭鉱を経営していたが、経営難で父親が一家もろとも無理心中したという過去があった。父親は「燃やせ、殺せ」という声を聞いていた。
・ その炭鉱では過去に火災事故があり、大勢の作業員が、地下で生きながら焼かれて死んでいた。

  という過去の「穢れ」が、土地や人を介して現代まで連鎖している、という事実を2人は突きとめる。そこで調査は終了となるが、すでに2人にも、その関係者にも、「穢れ」が伝染している。ということがほのめかされて終わり。

■日本の怪談らしい理不尽さ

 もちろん怖かったのだけれど、どうもスッキリしない後味であった。もともと日本のホラーはそういうのが多いと思うけれど、とにかく理不尽さが目立つ。たとえば本作の肝は「話しても聞いても祟られる」というルールにあるのだけれど、あまり関わりのなかった編集部の社員がなぜか呪い殺された(?)かと思えば、どっぷり関わっていた主人公らには実害がない。同じマンションに住んでいる住人にも悲劇が起こったり起こらなかったりで、そのルールがよくわからない。もしかしたら原作では説明されているのかもしれないけれど、鑑賞中は「え、なんで」がけっこうあった。
 まあ、そこがまた恐怖であり、得体の知れない不気味さを醸し出しているのかもしれないけれど。

 さてこの『残穢』の世界が現実にあったら堪らないのだけれど、要は「呪いの連鎖」みたいなものだ私は理解した。
 理不尽に死ななければならなかった人たちの「怨念」みたいなものがその土地(あるいは人)に残り、「祟り」を起こす。それで殺された人の「怨念」がまた残って、形を変えて「祟り」を起こす。そんなことが延々と繰り返される。

 けれど現実的に考えて、もし理不尽な死が「怨念」となって「祟り」を起こすとしたら、この世は祟りだらけになっていると思うし、人類なんてとっくに絶滅していると思う。果たされない未練なんてどこにでも沢山ある訳で、それら一つ一つがいちいち呪いとなって誰かを殺すとしたら、世界はどこもかしこもホラーだ。『残穢』が現実なら、日本人はおそらく全員この祟りにやられてしまうだろう。

 とは言いつつ、もちろんこれはフィクションでありエンターテイメントであるので、そんな理屈は無視して単純に恐怖を楽しめばいいと思う。べつに観たから呪われるとか、クリスチャンの品位(なにそれ)に欠けるとか、そんなことは全然ない。こういう娯楽がダメだと言うなら(そう言うクリスチャンはいる)、賛美礼拝という名のカラオケ大会だって娯楽だからダメだろう。

 けれどこういう「祟り」や「呪い」の類をフィクションでなく、あくまで現実の話として捉えている人たちがいて、ちょっと笑えない。それはクリスチャンの一部の人たちだ。


■聖書無視の「呪い」が教会で語られている

 あくまで一部の教会だけの話だと思うけれど、たとえば「家系の呪い」とか、「土地の呪い」とか、「悪魔崇拝に関する呪い(コックリさん等)」とかが、まことしやかに語られている。
 たとえば病気が長引いている信徒をつかまえて、その病気は先祖代々の罪が影響しているから、主の御名によって断ち切らなければダメだ、とか(家系の呪い)。
 あるいはパチンコ屋が密集している地域を指して、ギャンブルの霊がついているから断ち切らなければダメだ、とか(土地の呪い)。
 またあるいは、子供の頃に興味半分でやったコックリさんのせいで、心に悪魔の足場(なにそれ)ができているから、断ち切らなければならない、とか(悪魔崇拝に関する呪い)。

 いわゆる「断ち切り」については何度か書いているけれど、つまり私たちはイロイロなよくわからない因果に縛られていて、そこから目に見えない悪い影響を受けているから、一つ一つを「示してもらって」、「断ち切り」をしないと自由になれない、というような話だ。

 それで家系の呪いを断ち切り、土地の呪いを断ち切り、悪魔崇拝を断ち切り、他にもイロイロ断ち切るんだけど、いっこうに問題が解決されない。それで牧師に相談すると、「まだ示されていない罪の呪いがある」ってことになり、自分の黒歴史を洗いざらい白状させられたり、親の失態や家族親族の秘密を暴露させられたりする。それでも解決しないと、今度は飼っている犬に「呪い」があるんじゃないかとか、住んでいる家に何かあるんじゃないかとか(ここで『残穢』につながる)、もう何でもアリな話になってしまう。いろんな悪魔やいろんな呪いが登場し、もはや解決不能なくらいそれらが複雑に入り組んでいるように思える。もう絶望的。
 そして最終的には、「今はまだ神の時ではない。今は忍耐の時だ」とかいう話になって、え、結局待てってことですか? 結局待つなら、なんで今までこんなイロイロ断ち切ってきたんですか? という始末。

■そもそも聖書は「呪い」についてどう言っているのか

「断ち切り」信奉者に言わせると、たとえば最初の人間であるアダムが罪を犯したことで全人類に「罪の性質」が入ったのだから、先祖のイロイロな「罪の呪い」が子孫代々引き継がれるのは当然だ、となる。あるいはカインに殺されたアベルの血がその土地から主に叫んだという記述「だけ」引用して、「土地につく呪い」があると主張する。

 けれど私たちは、アダムから個別の「罪の呪い」を引き継いでいる訳ではない。彼が生きている間に犯しただろうすべての罪を、個別に「呪い」として引き継いでいるのではない。もしすべての罪を個別に引き継ぐとしたら、私たちは何代か前の先祖たちからの呪いだけでなく、アダムから全代にわたる、すべての呪いを一手に引き継いでいることになってしまう。すると私たちは、たとえば遠い先祖が犯しただろう殺人によって呪われており、同様に強盗によって呪われており、同様に姦淫によって呪われており、その他の大小様々な、ありとあらゆる罪からくる呪いによって呪われている。呪いは一つ一つ断ち切らなければならない、という彼らの主張に従うなら、それらすべての呪いを全部個別に調べあげ、指定して、全部個別に断ち切らなければならなくなる。『残穢』の世界みたいである。その生き方は未来に向かうものでなく、私たちを過去に閉じ込める。過去の○○の罪があるから断ち切らないといけない、でもその原因になった××も断ち切らないといけない、でもまたその原因となった罪があるはずだから、何とかして過去を調べないといけない、みたいな話になってしまう。

 彼らはクリスチャンである。キリストを心に信じて救われているはずである。けれどどうも、キリストを信じて心に受け入れただけでは救われない(まだ呪われている)、と信じているようだ。その考え方が聖書から完全に逸脱していることに、気付いていない。

 聖書が言っているのは、「子はその親の罪によって裁かれない」というシンプルな事実だ。これだけでも、「家系の呪い」は完全に否定される。また「キリストの十字架は全ての罪を清算した」訳で、個別の罪をあれやこれやと挙げ連ねて一つ一つ「断ち切る」必要なんてない。もしそれが必要だとしたら、私たちは罪を犯さない日なんてないのだから、毎日毎日、沢山の時間を「断ち切り」に費やさなければならなくなる。それは旧約時代の、いけにえを捧げる行為にも似ている。捧げても捧げても終わらない。新約の約束はどこに行ってしまったのだろうか。

■『残穢』の世界に生きるクリスチャン

 彼らはおそらく『残穢』みたいな映画を「汚れている」とか「悪魔はいるけどお化けとかいない」とか「観ると悪魔の影響を受けてしまう」とか言うだろう。けれどそう言う彼らの信仰そのものが『残穢』の体現みたいなものだ。昨年は「油事件」が一時期話題になったけれど、あれだって「敵の要塞に油を注いできよめる」みたいな理屈な訳で、「呪い」の「断ち切り」とそう変わらない。学研『ムー』の妄想話を「一理ある」とか言っちゃう人とか、ニューヨークの「自由の女神」像に立ち向かっちゃった人とかもいる始末で、もう信仰的とか熱心とかいうレベルではない。常軌を逸している。
 でも世間の注目を集めやすいのは、普通の真面目なクリスチャンでなく、こういう電波系の連中である。そして彼らの変なイメージが、そのまま日本のクリスチャン全体のイメージにもなりかねない。本当にどうにかならないだろうか。

 映画『残穢』を観て、そんなことをツラツラと考えてみた。

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