カルトっぽい教会を離れた後の話・14

2016年2月25日木曜日

教会を離れた後の話

t f B! P L
 私の教会が解散になる前、「世の終わり」について盛んに語られていた。

 世界は終末に向かっており、もう待ったなしだ、あちこちにその「しるし」が現れている、もうすぐにでも「艱難時代」が訪れる、と牧師はあらゆる礼拝、あらゆる集会で語っていた。内外から訪れるゲストも異口同音に世の終わりとか End time とか語っていく。そのために作られたおどろおどろしい映像の数々も見せられた。だから私たち信徒も使命に燃えて、終末の時代にあって主の御心に敏感に応答していこう、という雰囲気になった。「心を引き締めろ!」と牧師に度々尻を叩かれた。そして携挙のタイミングはいつだ、艱難時代の始まりのサインは何だ、だから今から食糧を備蓄するんだ、農業やって自給自足だ、礼拝も24時間続けなければならない、など、諸々の活動が始まっていった。

 無駄な話を飛ばして結論だけ書くと、最終的には、艱難時代が始まるタイミングが指定された。けれどその日を迎える前に教会は解散となった。牧師は消えた(携挙された訳ではない)。残された私たちは、その指定日に何も起こらないことを確認した。つまり嘘だったことを確認した。

 この出来事はいわゆる「終末詐欺」で括られると思うけれど、キリスト教プロテスタントの一部やイロイロな新興宗教で少なからず行われている(と後から知った)。だから「世の終わりが近い」とか「艱難時代が間近だ」とかいう発言を目にすると、「またか」としか私は思わない。
 と言っても終末が近いという可能性を完全否定するつもりはない。終末詐欺に遭ったからもう終末話は信じない、という極端なスタンスではない。そうでなく、終末の時期は誰にもわからないのだから、近いとか遠いとか言うことはできないでしょ、と言いたいだけだ。

 そういうスタンスで周囲を見回してみると、「今はまさに世の終わりの時だ」みたいなことを真面目に言っている人は案外多い。まあパウロもぺテロも自分たちの時代を「世の終わり」と捉えていたのだから(実際には世の終わりではなかった)、今の人たちがそう捉えるのもべつに問題ない。ただ、艱難時代とか携挙とかのタイミングを大雑把にでも指定してしまうことや、「終末なんだから伝道には福音と終末をセットで語るべきだ」とかいう「終末狂い」な状態になるのは問題だと思う。あるいは終末にお金を持っていても仕方がないから全額下ろして○○を買ってしまえとか、終末に会社勤めしていても意味がないから辞めてしまえとか、もうそういうのは常軌を逸している。信仰的でも何でもない。

 ではここで、私自身の反省を踏まえた、「終末間近説」の問題点を挙げてみる。

問題点1:神が「知らない」と言うことを「知っている」としている

「その日は誰も知らない」と聖書がハッキリ明言していることを、ソドムとゴモラの滅亡を事前に知らされたアブラハムの話とか持ち出して、「いえ、わかるんです(エッヘン)」と言ってしまっている。そういうのは聖書の恣意的解釈、あるいは自己都合的解釈と言う。 聖書が明言している部分を完全無視して、都合のいい箇所だけ引っ張ってきて都合よく解釈する。聖書がハッキリ「こう」と言っている部分を完全否定できるなら、たとえば神は愛でなく、イエスは神の子でなく、最後まで残るのは信仰でも希望でも愛でもなくなってしまう。

問題点2:終末が近いから○○しよう、というその態度

「終末が近いから心を引き締めて祈ろう」
「終末が近いから真剣に礼拝しよう」
「携挙されるように敬虔なクリスチャンになろう」
 というのはどれも、
「テストが近いから勉強しよう」
「部長が帰ってくるから仕事しよう」
「ボーナスの査定があるから今週はオレ仕事本気モードね」
 みたいなことと同じだ。

 聖書が示す終末に関する譬に、旅立つ主人にそれぞれ仕事を割り当てられたしもべたちの話がある。主人の帰りが夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方かわからないけれど、帰った時に寝ているのを見られないようにしなさい、という話。この話に「終末間近説」の人たちを当てはめると、たとえばこうなる。
「主人が帰ってくるのは24時ちょうどだと私たちにはわかっている。だから23時くらいから準備開始だ」
 つまり、絶えず起きていて主人がいつ帰ってきてもいいようにしておこう、という聖書が推奨する態度ではない。
 くわえて、「いつ帰ってくるかわからない」という部分を無視して勝手に自分たちで主人の帰宅時間を決めてしまっている。
 これは聖書に従っている態度とは言えない。

問題点3:どちらかと言うと嫌なこと(艱難時代)を避けたいという動機

 これは「終末間近説」を唱える人たちの中の、「艱難時代の前に携挙がある」という説を信じている人たちの話になる。艱難時代はクリスチャンに対する迫害もあってイロイロ大変でしょうけれど、こうやって終末を信じている「敏感な」私たちは、艱難の前に救い出されます、だから恐れることはありません、みたいなことを彼らは信じている。

 これは聖書解釈によってイロイロだし、自分が信じたいものを信じるという人間の習性もあるから、それぞれが信じたいように信じるんだと思う。艱難前に携挙されてこの世とはバイバイ、あとはあっちでハッピーよ、と信じていたい人はそう信じればいいと思う。それが事実かもしれない。しかしこの「事実かもしれない」と同じ意味、同じ可能性、同じ確率で、事実でないかもしれない。ということは覚えておいた方がいい。

 またこの信仰には、艱難を避けたい、つまり嫌なことや辛いことを避けたいという動機が含まれている。もちろん人間だれしも、嫌なことや辛いことは避けたい。だから当然と言えば当然だけれど、この「嫌なものは嫌だから避けたい」という考え方が創造者である神に対する信仰かどうかと言えば、私は違うと思う。つまりこの場合の彼らの「神」は艱難を避けるための「手段」あるいは「方法」でしかなく、いつも私たちとともにおられる愛なる存在ではない。

 その証拠に、彼らは「携挙されるにふさわしいクリスチャンにならねば」と思っている。そして一生懸命祈ったり聖書を読んだりしている。それはあるライン越えよう、他の人が越えなくても自分だけは越えよう、という試みである。それは取税人と一緒に宮に上ったあのパリサイ人の心境と同じだ。「自分はこれもしました。あれもしました。この罪深い取税人のようでないことを感謝します」

 私ももちろん嫌なことや辛いことは避けたい。でも考え方としては、今が終末であるか、携挙が本当にあるとして自分がどうなるか、艱難時代に入るとしてどんな目に遭うか、というのは、この人生がどうなっていくのかと同じように、「それでも神がともにいて下さる」ということを信じて受け止めたい。神は私たちがどんなでも決して見捨てないし、私たちがたとえ神を憎んだとしても、神は私たちを愛することをやめない。私に何ができてもできなくても、神は態度を変えない。そういう神の存在こそが私たちの希望であるはずだ。
 あるラインを越えて「敬虔」にならないといけない、沢山祈って聖書を読んで献金しなければならない、携挙されるに足る人物にならないといけない、というのは、どちらかと言うと努力とか精神論とかの話だ。それが悪いとは言わないけれど、それを神が本当に願っているかどうか、再考する余地はあると思う。

 ちなみに「携挙されるに足る人物」みたいな表現があるのは、たぶん終末小説『レフトビハインド』なんかの影響もあると思う。つまり本物のクリスチャン、良いクリスチャン、真心から主を愛するクリスチャンでないと携挙してもらえない、失格になってしまう、という「試験方式」という考え方だ。「終末間近説」論者には当たり前になっているその考え方は、あくまで誰かがつくった考え方であって、べつに聖書にそう書かれている訳ではない。「敬虔な者が引き揚げられ、不遜な者は残される」なんてどこにも書かれていない。それにもし敬虔さで引き揚げられるかどうかが決まるとしたら、その敬虔・不敬虔の基準が明示されていないのだから、言うなれば合格点のわからない試験を受させられるようなものだ。合格点は60点かもしれないし、99点かもしれない。100点かもしれない。いずれにしても、一生懸命勉強したところで合格するかどうかわからない。誰がそういう試験を受けたいだろうか。
 終末だ携挙だと息巻く前に、そのへんのことを冷静に考えてもバチは当たらないと私は思う。

 という訳で私の教会は終末思想に取り憑かれてしまった。そして敬虔でなければならない、絶えず目を覚まして祈っていなければならない、決して信仰を妥協してはならない、という字面的には何ら問題ない、でも実際には過酷すぎる労働に、全員が従事させられたのだった。その結果イロイロな破綻をきたし、牧師は消え(繰り返すが携挙されたのではない)、教会は解散となった。あとには何も残らなかった。つまり私たちが信じていた「終末」はこの世のものでなく、自分たちの教会のものだった、という悲しいお話。

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