「神の視点」にまつわるあれこれ

2016年2月16日火曜日

教会生活あれこれ

t f B! P L
 少し前にtwitterで連ツイした内容なのだけれど、大切なことだと思うので記事にまとめてみたい。

 発端は、「問題が山積みでも神様を見上げましょう。神の視点で問題を見ましょう」という内容の某クリスチャンのツィート。
 これは一見信仰的で、気の利いた助言に思える。けれど2つの点で問題があると私は思った。
 1つは「神の視点」という言葉。もう1つは、この台詞を語っている「態度」である。

 そもそも「神の視点」で物事を見るとはどういうことなのか。神の御心を完全に把握していて、「うん、この試練にはこういう意味がある。今後はこうなる。将来的にはこうなる。だから大丈夫だ」みたいなことを明確に言えるのだろうか。そんなことは誰にも言えない。ということは人間が「神の視点」で物事を見るのは不可能なのだ。

 時々「私には御心が完全に示されている」みたいな寝言を言う人がいるけれど、いざとなると「この御心はまだわからない」とか「全てがわかる訳ではない」とか矛盾したことを平気で言う輩だから気にしない方がいい。

 だから「神の視点」で見ようっていう発言には、傲慢さか、あるいは軽率さが含まれている。知恵があると自称する人は使わない方がいい。
 もちろんこの発言の意図がわからないのではない。「神の視点」で見ようというのは、要するに「問題全体を俯瞰してみよう」とか、「視点を変えて見てみよう」とか、そういう意味なのだと思う。それをちょっとカッコつけて「神の視点」と言ってみただけだろう。それならそれで「視点を変えよう」の方が誤解がないと思うけれど。

 もう1つの問題点はこの発言の裏にある「態度」だ。たとえ視点を変えたって、問題は解決しないのである。「神の視点」を持ち出せば信仰的になる気がするかもしれないけれど、要は現実逃避とさほど変わらない。なぜなら、視野を広げれば問題が小さく見える、というのは心に余裕を持つという意味で必要なことだけれど、それに終始するのは問題を放置することになるからだ。そこに信仰ウンヌンを持ってくるのはちょっと違うと思う。 祈るために船を漕ぐ手を休めたら、船はどこにも進まない。 

 これが自分自身にあてた言葉なら特に問題とは思わない。けれど基本的に他人に向けて発せられた言葉なので、現実逃避を推奨しているようでいただけない。 単に「視点を変えよう」という助言だとしても、やっぱりいただけない。なぜなら本人は視点を変えたり何かを変えたりで散々努力したけれど解決しなかったから、苦しんでいるのだ。今更「視点を変えよう」とか言われても苦笑するだけだ。

 またたとえ「御心」がハッキリと完全に示されていて、「この苦しみには○○という意味がある。乗り越えれば××が待っている」とわかったとしても、だからその苦しみが半減するとか消失するとかいうことはない。苦しいのは苦しい。本人にとって一番問題なのはその「苦しい」という体験であって、苦しいうちは、その意味とか将来とか全然関係ない。

 たとえばマラソンで30分走るのは苦しいことだ。走ったことで得られる様々なメリット、たとえば運動後の爽快感とか心地いい疲労感とか、持久力や体力の向上とか、そういうものが得られるとわかっていても、走るのが苦しいのは変わらない。走っている最中に思うのは、早くやめたいということだ。

 高い山に登れば人や家が小さく見えるように、「神の視点」で見れば私たちの悩みもちっぽけなものです・・・というのはよく聞くフレーズだけど、それは単に視野を広げたとか、視点を変えたとかいう話でしかない。それが「神の視点」なのではない。あくまで人間の側の、「気持ちの持ちよう」の話だ。

 そういう「良さげな話」を引用するのは、誰にでもできる。でも本当に大切なのは、その考え方なり方法なりに本当に価値があるのか、問題はないのか、別の考え方はないのか、あの人に言ったらどう受け取られるのか、失礼ではないか、等ちゃんと考えることだ。 それをしないで簡単に口から出してしまうのは、単なる思考停止だと私は思う。

QooQ