「ヤクザから聖職者へ」について思うこと

2016年1月28日木曜日

雑記

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・ヤクザから聖職者へ

「ヤクザから聖職者へ」というフレーズが最近目に留まり、気になった。今回はそれについてちょっと書いてみたい。

「キリスト教の牧師になった元ヤクザ」という人たちが登場して、もう20年くらいになるだろうか。イレズミを披露したポスターとか、その半生を描いた映画とか、十字架を担いだ行進とか、一時期話題になったと記憶している。
 彼らはヤクザでも改心できる、正しくなれる、神は愛であってヤクザをも見捨てない、というメッセージを伝えるため、あえて「ヤクザだった過去」を前面に押し出して活動している。と私は理解している。
 それはそれでニーズがあると思う。ヤクザを救うための元ヤクザ、みたいな存在になりえる。あるいは相手がヤクザでなくても、不良少年(少女)とか、暴走族とか、前科ありな人とか、いわゆる社会の規範からズレてしまう人たちの希望になりえる。一般の牧師ではなかなか手が届かない分野に、彼らは(たぶん)力強く切り込んでいける。そこが彼ら「元ヤクザ牧師」の強味であろう。
 もっともそれはポテンシャルの話であって、現存する元ヤクザ牧師たちがその分野でどれだけ貢献できているかは、まったく別の話だけれど。

・つくられたイメージと演出

「ヤクザから聖職者へ」というフレーズに、感動する人もいるだろう。「主はなんて素晴らしいお方。どんな人でもきよめて下さる」みたいな感じで。
 その感動は、当然と言えば当然だ。言葉は悪いけれど、そこが「ヤクザから聖職者へ」の売りだからだ。ヤクザという「絶対的悪」とも言える存在が、神の側である「絶対的善」へと劇的に改心した、そして今は神に仕えている、というストーリーが、人々の感動を誘う。「だったらこんな自分でも」と多くの人に思わせる。あえて「伝道のインパクト」で評価するなら、「元ヤクザ牧師」のインパクトは大きい。彼らもそれがわかっているから、あえて体のイレズミを晒し、過去の「職業」を晒す。

 批判的に書いているようだけれど、それはそれで正攻法だと私は思う。伝道には戦略も必要だからだ。売れそうな商品を作るのが商売の前提であるように、伝道もただひたすら神に祈るだけでは一歩も進まない。何か効果的な方法を考えて始める必要がある。だから元ヤクザって肩書きを前面に押し出す方法は、その分野には効果的かもしれない。結果がどうかは別として。

 だからそれは方法であって、少なからず「つくられたイメージ」があり、「演出」がある。
「ワルだった俺が、今じゃ親分はイエス様。ヤクザから聖職者へ。元ヤクザ牧師だ!」
 それでイレズミをジャーンと出して、あえてタメ口でワルそうに話して、そうやって場を盛り上げる。何も悪くない。未信者に対してはインパクト大だ。彼らが入信するかどうかは別として。
 あるいは不良少年とか出所したてのやさぐれた若者をガシッと抱いて「バカ野郎! お前だって愛されてんだよ!」とか涙ながらに叫ぶのもアリだと思う。彼らの更生には、そういう「愛」も必要だろうと思うから。

  けれどそこで既存のクリスチャンが一緒になって感動したり泣いたりするのは、ちょっと違うと私は思う。べつに感動するのは自由だけれど、彼らのやっていることの背後に「イメージ戦略」があり、あくまで「演出」が入っていることを忘れてはならない。

・すげーワル?

 ヤクザと聞くと「悪そう」とは思うけれど、具体的にどれだけ「悪い」か見えてこない。オブラートに包まれている。
 でも単純に考えても、現在収監されていない(一般社会で生活している)ということは、さほど大きな罪を犯していないということだ。彼らの経歴を見ても(Wikiで調べられる)、銃刀法違反とか暴力とか覚せい剤とか、その程度だ(犯罪であるのは変わりないけれど)。だから大量殺人犯とか連続強姦魔とかが何十年という刑期のどこかで劇的に改心したとか、いろいろな意味でヤクザの頂点を極めたスゴイ人たちが劇的に改心したとかではない。彼らは、それよりずっと軽い罪で二進も三進も行かなくなって、お手上げしてクリスチャンになった人たちだ。それが、

「俺、昔はすげーワルだったんだよー!
 でもよー、こんな俺のことも、イエス様は愛してくれてんだよー!」

 とか言っているのだとしたら、ちょっと見方も変わるのではないだろうか。それでも感動するなら止めないけれど。

 もちろん、彼らも苦しみ葛藤してきたのは認める。その改心も簡単ではなかったはずだ。けれど、苦しみ葛藤しない人なんていませんけど? 誰もがそれぞれ悩んで苦しんで生きてるんですけど? 聖職者になったヤクザだけが特別苦しいとかないですけど?

  それにもし、冗談抜きの本当の本当の極悪人が改心したのだとしたら、果たして聖職者になるだろうか。聖職者になろうと思うだろうか。仮に何十人も殺した連続殺人犯が、幸か不幸か死刑にならず、何十年という刑期を終えて出所し、劇的な改心を経てクリスチャンになったとして、さて、イレズミをジャーンと晒して「俺は昔はワルだったんだよー!」とか壇上で叫べるだろうか。もしそうだとしたらフザケンジャネーだ。どこにも改心が見えないではないか。

  だから壇上で高そうなスーツをちょっと脱いでイレズミを晒し、会衆にタメ口を叩く「元ヤクザ牧師」は、繰り返すけれど、少なからず「演出されたイメージ」の上に成り立っている。もちろんその改心や後悔や同じ境遇の人々への情熱の全てが演出だとは言わない。真実な気持ちも含まれているだろう(むしろ出発点はそこだろうと思う)。けれど同時に、そのインパクトが意図的であり、エンターテイメントであることを忘れてはならない。

 また仮に彼らが「すげーワル」だとしても、私たちだってそう変わらない。私たちだって同様に悪い。主を十字架に付けたのは、一部のヤクザや犯罪者たちではない。私たち全員だ。そうではないだろうか。

・結論

 さてイロイロ書いたけれど、元ヤクザ牧師の存在を否定する気はない。冒頭に書いたようにニーズがあるし、彼らの得意分野がある。見世物的な興業まがいの伝道になるかもしれないけれど、それでも必要とする人たちはいるだろう。けれどそこで既存のクリスチャンたちが一緒になって素晴らしいですねーとかハレルヤーとか言うのは、その「演出」の部分に踊らされているだけだと私は思う。という話。

 ちなみに以前、同じようなテーマで記事を書いていたので、参考までに下記にリンクを貼っておく。
 →「元ヤクザ牧師」について思うこと
 この時と今とでは少し考え方が違っている。この時の方がマイルドだったなと思う。

・オマケ

  こういうことを書くと、「パウロだって過去の自分がいかに罪人であったか告白してますけど」みたいな反論(?)をする人がいるけれど、何が言いたいのか全然わからないし、こちらの趣旨をちゃんと読み取ったものとも思えないので、相手にしない(できない)。

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