カルトっぽい教会を離れた後の話・10

2016年1月26日火曜日

教会を離れた後の話

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 ペンテコステ派とかカリスマ派とか、いわゆる「聖霊派」で大きく括られるような教派がある。私はそこにいた。そして類似した教会を少なからず見たし、いろいろな集会にも参加した。だから内部からの分析として言えると思うけれど、その教派の特徴は、「体験すること」にある。何が起こったか、どんな現象だったか、何を感じたか、といったことに大きく焦点が当てられている。

 だからその人々の「証」を聞くと、○○が癒されたとか、礼拝中に天使の羽が降ってきたとか、「御業とした思えない出来事」が起きたとか、「異言」が溢れてきて止められなかったとか、いろいろな「体験」が出てくる。彼らの価値基準の現れである。「体験」こそが全てと言っても過言ではない。その証拠に、礼拝中に「聖霊の働き」で人がバタバタ倒れたり、泣き出したり、叫び出したり、力強い「異言」が出てきて大騒ぎになったりという「体験」を「生きた礼拝」「生きた教会」だと評し、逆説的に、そういうことが起こらない教会にダメ出ししている。

 あるとき、ペンテコステ系の牧師Aが、福音派の「異言」を語らないある牧師Bと一緒に奉仕した。もともとAは集会のリードがうまくて、場を盛り上げるのが上手だった。Bは反対のタイプだった。だから当たり前だけれど、Aがマイクを持つと会場は盛り上がり、Bが持つとそうはならなかった。
 さて奉仕が終わって、Aが側近の連中に講釈を始めた。「Bは異言が与えられていないし、霊的に開かれていない。だから集会中の霊の流れがわからなくて、そこに乗れないんだ。だからあんな死んだような雰囲気になってしまう。あれでは会衆を養えない」

 つまり「霊の流れ」に乗って会衆を盛り上げて大騒ぎさせられなければ、それは死んだ集会、死んだ教会ということらしい。逆に、泣いたり笑ったりさせられれば生きた集会、生きた教会ということになるらしい。
 でもそれって、本当に「霊」の話なのだろうか。単に能力とか資質とか目的とかの話ではないだろうか。

 というのはほんの一例だけれど、要は「体験」がなければ意味がない、「体験」してこそ本物の信仰だ、みたいな考え方がある。だからどんな「体験」をしてきたかが、彼らにとって重要になる。その「体験」の数々はいわば勲章であり、武勇伝であり、教会あるいはクリスチャンのヒエラルキー(なにそれ)での自分の位置づけに大きく影響する。だからその教派で熱心であればあるほど、ひそかに「体験」を求めることになる。

 だから結果的に、「どうすれば体験できるか」という観点で神学なり教理なりが構築されていく。そして「40日断食」とか、超長時間の祈りとか賛美とか礼拝とか、「霊の戦い」とか、「預言的アクション」とか、ダビデの幕屋の礼拝とか、ほとんど律法的か御利益主義としか思えない方法論が取り上げられることになる。

 裏を返すと、そういう「体験」がないと、あるいは少ないと、それだけ信仰に進んでいないという話になってしまう。下手すると不信仰とか思われてしまう。だから牧師とかリーダーとか長老とか役員とか、信仰歴の長い人とかは、その肩書きなり歴史なりに相応な「体験」が自ずと求められる。そう考えると、なかなか恐ろしい世界である。

 そういう前提を知ったうえで彼らの「証」を聞いてみると、また違った見方が出てくるだろう。少なくとも単純に「ハレルヤ」とか「アーメン」とか言えなくなる。

 たとえば「癒された」という話。私はこれでも内外の様々な「癒しの集会」を見てきたけれど、 長年車椅子生活だった人が完全に立ち上がり、完全に歩けるようになって、その後も完全に1人で歩いている、というケースに遭遇したことはない。あるいは完全に失明していた人が、御業によって完全に視力を回復し、何でも見えるようになって、今もその「証」を方々で話している、というケースも見たことがない。
 私が見たのは、「ステージまで自分で歩いていけるくらいの腰痛」の人が、祈ってもらったあと、「良くなった気がします」と言い、来たときと同じように客席まで自分で歩いて戻った、というようなケースばかりだ。つまり祈りの前後で何が変化したのか全然わからないケースばかり。
 でも熱心な人たちに言わせると、「素晴らし癒しが沢山起こった集会でした」「恵まれました」って話になる。何が素晴らしくて恵まれたのか、一つも伝わってこないけれど。

 そんな訳で、全部が全部だと断ずるつもりはないけれど、その「体験」の多くは、「体験したつもり」「体験した気がする」という範囲を出ていない。以下に私が見てきた事例をいくつか挙げてみる。

・我々の「祈りの歩行」によって、町のパチンコ屋が次々と倒産していった。
→2000年以降、利用者減によるパチンコ産業の縮小化が進んでますけど。むしろ風俗店が増えててあまり良い傾向とは言えませんが。

・山で祈っていたら、急に風が吹いてきて、鷲が飛んできた。あれは聖霊の励ましだ。
→そりゃ山なら突風もあるし鷲もいるでしょう。

・夜になり、某神社で「霊の戦い」をしたら、ドタンバタンと音がして、叫び声が聞こえてきた。あれは悪魔の断末魔の叫びだ。
→近くに柔道場があるんですけど。

・祈っていたら聖書のある箇所が心に迫ってきた。
→その箇所が「語られたい」あるいは「語られたくない」と意識してませんでした?

・賛美をしていたらすごい力を受けた。
→「カラオケ効果(カラオケ健康法)」と何が違うのか説明できますか。


・「今日はこの教会で礼拝を捧げるように導かれました」
→ここで礼拝したかったんですね。

・ 「何も起こらなかったと思ってませんか? 水面下では確実に起こってますよ」
→2014年の10月と2015年の9月にそれぞれ「携挙騒動」があったけど、結局何も起こらなかったじゃねーか、という当たり前な批判に対する、どこまでも上目線な反応。携挙は起こらなかったけど水面下(霊の領域?)ではすごいことが起こった、それを感じないあなたが不信仰なんじゃないんですか? という逆ギレに近い言動。いやいや、水面下で起こるなら初めから水面下の話だって言え。それに、あなたの神って水面下でしか働けないのかい。

 以上、7つの事例を挙げてみたけれど、時間をかけて思い出せばもっと沢山出てくると思う。でもどれも似たような「勘違い」「思い込み」に基づくものばかりで、たぶん挙げてもあまり意味はない。
 冷静な人がこれらを見たら、思い込みか、あるいは思い込みの可能性があるとすぐわかるだろう。けれど問題は、その渦中にいる人には「真実としか思えない」という点にある。そういう意味で洗脳的な側面もあるだろう。つまり自分の周囲の全てのことに神あるいは悪魔が関与していて、逆風であればそれは「悪魔の働き」か「神の時でなかった」ことになり、順調であれば「御心に生きている」ことになる。しかしその考え方の最大の問題は、「自分で何も決められない」という点にある。全部が「神のせい」あるいは「悪魔のせい」だから。

 これもやはり、カルトっぽい教会を離れてはじめて気づいたことだ。私たちは自分のことは自分で決めなければならないし、その責任を負わなければならない。何かのせいにはできない。状況のせいにも環境のせいにもできない。そしてそれこそが神の人間に対する願いだと、私は考えている。

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