カルトっぽい教会を離れた後の話・9

2016年1月19日火曜日

教会を離れた後の話

t f B! P L
 教会の解散がまだハッキリ決まっていなかった頃、主要な信徒たちがほとんど毎晩集まって、教会をどうするべきか、長い時間話し合っていた。礼拝のこと、会堂維持のこと、借金のこと、各事業のこと、信徒のケアのこと、失踪した牧師のこと・・・。どれだけ話しても、時間が足りないように思われた。皆自分の仕事や家事を終えてから集まって、毎日深夜まで話すものだから、疲労も溜まっていたと思う。ミーティングは次第に殺伐とした雰囲気になっていった。
 しかしそれでも私たちは、話し合わずにいられなかった。

 話し合う中でいろいろな事実が浮かび上がってきた。牧師の暴虐ぶりや、残された借金の大きさ、信仰と思っていたが信仰でなかった数々の行い、子供たちがどれだけ傷ついているか・・・。私たちは愕然とするばかりだった。それらに加えて、以前書いた「らい病の家」の話もあった。はじめはイロイロな意見が出て、教会を存続させようという意見もあった。けれど最終的に解散という結論に達したのは、今まで書いてきた通り。

 教会を解散させるなんて信仰的じゃない、クリスチャンなら存続させるべきだ、という意見もあるだろう。けれどその意見は単純すぎるし、たぶん状況を見ていないから言えることだ。私たちが精一杯「信仰」を働かせてその選択をしたことだけは、ここに書いておく。

 ここからが本題だけれど、その話し合いの過程で、次第に信徒どうしの対立が目立つようになった。はじめは同じ被害者という仲間意識で連帯していたものが、だんだん意見が食い違うようになり、衝突するようになり、結果不可逆的な対立へと発展してしまった。もちろん全員が全員という訳ではなかったけれど(全員だったらもはや話し合いにはならなかっただろう)。

 その原因のほとんどは個々の価値観の相違であり、教義理解の微妙な相違であり、それぞれの優先順位の相違であった。そして結局和解することはできなかった。解散するなら話は簡単でしょと思われるかもしれないけれど、解散するにしたってイロイロ細かく決めなければならない訳で、簡単ではない。

 一つ実例を挙げるてみる。
信徒1「教会を解散させるとしても、事業Aは存続させるべきだ」
信徒「2「いやいや、事業Aだって辞めなければならない」
信徒3「続けるにしても辞めるにしても、とりあえず明日はどうするんですか。顧客になんて言うんですか」
信徒1「顧客には何も心配いらないと言えばいい」
信徒2「いやいや、顧客にも現状をきちんと伝えるべきだ」
信徒3「どちらにせよ、それは誰が言うんですか」
信徒1「それなら自分が言う」
信徒2「いやそれはダメだ」・・・

 そして次第に感情的になっていく。しかも話がマクロからミクロへ移っていく。Aの話だったはずが、Aが含むBという要素の話になり、次はBが含むCという要素の話になる。つまり話題が細かな点に集中して、そこを巡る各個人の対立になり、結局大事なことは何も決まっていない、なんてことが多々あった。

 それでも最終的には一定の合意に達し、いろんなことが決まっていったのだけれど、その過程でできた信徒間の軋轢は、もはや修復不可能に思われた。互いに苦々しい思いを抱えたまま解散を迎え、以降会っていない(会いたくない)という信徒関係は少なくない。

 ひるがえって思い出すのは、まだ解散云々の話が出る以前の、一応教会として機能していた頃のことだ。集まるたびに互いに握手し、ハグし、「あなたを愛します」と言い合い、祈り合った「神の家族」の姿である。あれだけ「愛します」と言っていた人たちが(自分も含めてだけれど)、今は会うことさえ忌み嫌っている。互いに糾弾し、責め、自己の正当性を主張し、訣別していった。

 その原因が「教会の解散」という非常事態にあるのは間違いない。けれど、その関係性は、非常時だからそうなったのだろうか?
 私はそうは思わない。
 もちろん解散騒ぎがなければ、私の教会は今もあっただろうし、今も「あなたを愛します」と言い合っていたはずだ。相手を笑顔で抱擁し、悩み事を聞き、泣きながら祈っていたはずだ。けれど解散騒ぎの葛藤のせいで私たちが仲違いしたというより、そのストレス下で本性が現れたと言うのが妥当だと私は思っている。

 人の本性、真の姿というものは、平時でなく非常時に現れる。普段はイロイロ繕えるけれど、その余裕がなくなると繕えなくなる。もちろん繕うこと自体は悪いことではない。自分の欲求を我慢して常識的に振る舞うのは、ごく当然のことだからだ。

 けれど私が忌々しく思うのは、クリスチャンが普段見せる「あなたを愛します」という偽善的態度だ。「あなたを愛します」「許します」「祈ります」とかイロイロ言うけれど、結局は自分本位であることが多い。その証拠に相手の話をちゃんと聞いていなかったり、自分の意見や信条を一旦でも引っ込めることができなかったり、最終的には相手を裁いておいて「聞き入れてくれなかったからだ」と自己防衛したりする。相手が聞き入れなかったということは、つまりは自分が相手の言い分を聞き入れなかったということなのに。

 そういうことを覆い隠しておいて平時は「愛します」を連呼する割に、非常時になると相手を悪魔呼ばわりする。それは愛とは言わない。むしろ本性を隠している分タチが悪い。

 私の教会に起こったことは悲劇だったかもしれないけれど、最後の最後に皆が自分の気持ちに正直になれたのは、良かったのかもしれない。嘘っぽい「愛」の態度で何年も何十年も過ごすよりは、もう会いたくないくらいに激しく衝突して、自分の真の姿を見る方が、ずっと有益だったのかもしれない。

 それも解散を機に感じたことの一つだった。

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