カルトっぽい教会を離れた後の話・5

2015年12月27日日曜日

教会を離れた後の話

t f B! P L
 信仰に「選択の幅」があることに気付いた私は、そのあとすぐ、その現実を目の当たりにすることになった。

 教会の解散の前後、教会が行っていた諸活動は順次閉じていった。詳しくは書かないが飲食業とか各種教室とか、福祉事業とか幾つかあった。担当者がそれぞれ終了の手続きをした。そして教会は最後の日曜礼拝を迎え、そのあとに最後の教会総会があって、正式に解散が宣言された。全てのことが淡々と進められていった――私にはそう見えた。

 しかし一つだけ、閉じられない活動があった。いわゆる教育活動である。顧客数が多くて簡単には閉じられなかった、と言うべきか。教会が解散してもその活動だけは残そう、継続しよう、という意見もあった。教会が悪くてもその活動自体は悪くない、という意見もあった。
 という訳でその教育活動だけは解散後もしばらく続いた。

 けれど、その教育活動を運営する教会そのものが消滅するのである。誰か、あるいは何かがその運営を引き継がねばならない。そこで立ち上がったのが、周辺教会のクリスチャンたちだった。以前からその活動に関わりがあった他教会の信徒たちが何人か集まり、とりあえず共同でその教育活動を運営していこう、という話になった。彼らは皆情熱に燃え、その活動をもう一度盛り上げていこう、発展させていこうと意気込んでいた。

 当然ながら彼らはそれぞれ違う教団教派に属していて、いわゆる超教派的に集まっていた。そのせいかどうか正確にはわからないけれど、彼らは考え方もやり方も違っていた。彼らに共通していたのは、その教育活動をなんとか立て直そうという志だけだったと思う。

 だから最初は和気あいあいだったミーティングも、次第に衝突が目立つようになった。リーダーシップをどうするか、教育方針をどうするか、場所をどうするか、教材をどうするかとか、まあいろいろなカテゴリーで衝突を繰り返した。それぞれ、自分の主張が正しいと信じていたからだ。崩壊しかかったその教育活動を再建しようという思いが強い分、皆引くに引けなかったんだと思う。

 そのように運営サイドが混乱したまま、その教育活動は進んだ。教える側の言うことは統一されておらず、結果として現場も混乱した。そしてその混乱は運営サイドにそのまま返ってきて、話し合いは一層難しくなった。

 プロセスはいろいろあったが結論だけ書くと、運営サイドはバラバラになった。1人抜け2人抜け、 最初にあった意気込みはどこへやら。結局その教育活動も閉じることになった。

 もちろん彼らが衝突した原因は、彼らの出身教派の違いだけにあるのではない。1人1人のキャラとか生い立ちとか価値観とか、その活動に対する考え方とか理想とか、そういったものの違いにも原因があったと思う。けれど一般社会もそれは同じである。それぞれ価値観の違う者どうしが話し合い、時に衝突し、時に妥協しながら、何かを決めていく。その衝突のせいでその活動が終わるなんてことは基本的にない。だから意見が違うのもやり方が違うのも、根本的には問題ではない。

 私が思うに彼らの失敗の原因は、自分の考え方・やり方こそ一番正しいと信じて妥協できなかったことにある。自分以外の人間の意見をちゃんと聞くことができなかったのだ。そしてそういう強硬な態度の背景には、多くのクリスチャンに共通するある傾向があると私は思っている。すなわち自分の聖書解釈こそ一番正しい、自分のイメージする神様像こそ一番正しい、自分の信仰こそ一番正しい、という排他的な傾向だ。

 私が言う「信仰の選択の幅」とこの「排他性」は、それぞれ相反している。すなわち前者は「Aでも良い、Bでも良い、Cも認められる、でもDについてはよく考える必要がある」みたいなことだけれど、 後者は「何が何でもAでなければならない」というものだからだ。
 私が思うに前者は新約聖書的で、後者は旧約聖書的だ。
 今が旧約時代であるなら、私たちは犯した罪のために(場合によっては)石打ちにされなければならない。それは絶対に回避できない唯一の選択肢となる。けれど新約時代であるなら、「石を投げなさい。しかし・・・」と続く。私たちには石打ちを避けるという選択肢も用意されている。

 私は新約時代を生きたいのだけれど、どうやら旧約時代に戻りたい人たちも少なくないようだ。ということに気付いた出来事であった。

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