カルトっぽい教会を離れた後の話・4

2015年12月23日水曜日

教会を離れた後の話

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 さて、「信仰には選択肢がある」というシンプルな事実に私は気付いた。

 つまり信仰にはある程度の「選択の幅」があって、自由に選べる余地がある、ということ。
 たとえば聖霊派が諸教派の中で一番正しい訳ではないし、ある教会が他の教会に比べて特別重要な訳でもない。ある聖書の箇所が特別重要ということもない(それは個人の心情としてはあるかもしれないけれど)。神の御心が今は○○だから、絶対それに従わねばならない、従わないのは不信仰だ、なんてこともない。唯一絶対の正しい選択肢があって、それ以外の選択肢は全部不信仰だ、というのはカルト系牧師の信徒を操る方便でしかない。

 あまり聖書の引用はしたくないけれど、「あなたの信じた通りになるように」という言葉が、この「選択の幅」の説明には適しているかもしれない。
 たとえば、いわゆる「洗礼」で言えば、「浸礼」でなければならないと信じる人もいるし、「滴礼」で十分だと信じる人もいる。幼児洗礼は大人になったら無効だと考える人もいる。それぞれ信じていることが違うのだ。けれど、もし「浸礼」だけが唯一正しい洗礼の形であって他ではダメだとなるなら、「滴礼」を採用している教会は教会として失格ということになってしまう。あるいは「浸礼」をする際、たまたま後頭部だけちゃんと水に浸からなかったというハプニングがあったとして、そのことを天国に行ってから神様にあれこれ言われてしまうのだろうか。新約時代である今日、神様がそういう形式上の細かいところを厳密に見ておられるとも思えないけれど。

 と言いつつ、ここで神学的な議論をする気はないので、話を戻す。

 という訳で教会の解散後、私はすぐ、この「選択の幅」あるいは「選択の自由」という空間に投げ出された。
 その自由を使ってイロイロな教会に足を運んでみたのだけれど、正直、その頃はまだ礼拝が苦痛だった。全てが偽善にしか見えなかったからだ。
 もちろん、それは私個人の内面的な問題のゆえであって、行った教会がどこも偽善的な礼拝をしていたという訳ではない(はずだ)。ただ私には熱心な祈りとか賛美とか、講壇で真剣に語る牧師とか、信徒の優しさとか、そんなすべてが嘘っぽく見えてしまったのだ。それは20年近く嘘っぽい(そして実際嘘が多かった)教会にいて、最後にその嘘に気付いてしまったからかもしれない。

 だから自由であるのは間違いないのだけれど、かと言って何も選べない、決められない、という状態が長く続くことになった。一つの教会にしばらく通い、また他に教会にしばらく通い、みたいなことが続いた。 実は今もまだその途中である。何を選ぶべきか? という新たな問いに、私はまだ答えを出せていない。

 その原因の1つは、前述の通り、どれもが偽善っぽく見えてしまうことにあると思う。
 しかし原因はもう1つあって、たぶん、「どれが最も正しいんだろう」みたいなことを私はまだ考えているのだと思う。それはカルト的な思考である。すなわち絶対的に正しいただ1つの選択肢と、それ以外の全ての間違った選択肢、という二元論的な思考パターンだ。たぶん私にはまだそのパターンが残っている。だから意識的にか無意識的にか、どれが一番正しいんだろうと考えてしまって、選べないのだと思う。

 今日クリスチャンをやろうと思ったら、あまりキリスト教の発展していないこの日本であっても、イロイロな選択肢がある。たとえば教団教派。大きく分けるとカトリックかプロテスタントか。そしてプロテスタントなら聖公会とかルーテルとかバプテストとかホーリネスとか、(私が一番問題視している)聖霊派諸派とか、他にもあるけれど、どれが絶対的に正しいとか間違っているとか、万人が認める基準などない。また同じ教派の教会も沢山あるけれど、どこが一番優れているとか重要だとかいうこともない。選ぶのは自分自身であって、他の誰でもない。

 先に書いたように、どれが一番正しいか、という話ではないのだ。問題は自分が何を信じるか、何を選ぶか、にある。でないと大変なことになってしまう。なぜなら信仰者なら誰もが、自分が信じているものこそ一番正しいと信じているからだ。ためしにマリア崇拝について、カトリックの熱心な信徒とプロテスタントの熱心な信徒とで話し合わせてみたらいい。絶対に決着がつかないことを私は保障する。あるいは仏教徒とキリスト教徒とか、イスラム教徒と他の宗教の信者とかでもいい。みな自分の信仰こそ絶対正しいと信じている。そしてそれはどんなに頭のいい人が理路整然と説明しても、ほぼ確実に、訂正することができない。

 今回の話には結論がない。それはまだ私自身が自分の信仰について結論を出していないからだ。
 けれど私がどうするかはここでは重要ではない。この記事において最も重要なのは、次の一点にある。すなわち信仰者なら誰もが「自分の信仰こそ絶対正しい」と信じている、ということだ。

 考えてみればこれは当たり前な話なのだけれど、教会解散後の「自由」の中、私はその事実にぶつかって大いに衝撃を受けたのだった。

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