カルトっぽい教会を離れた後の話・3

2015年12月16日水曜日

教会を離れた後の話

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 カルトな教会が解散して、信仰上のいろいろな間違いに気づいて後、私はあることに気付いた。「信仰には選択肢がある」というごく単純な事実にだ。そんなの当たり前な話なのだけれど、当時の私には衝撃的は気付きだった。選択肢は一つ、すなわち「神の御心」しかない、と単純に信じていたからだ。

 たとえばカルトな教会では、牧師がこんなふうに言う。
「○○こそが神の御心です」
 まず、その言葉の信憑性は決して疑われない。牧師の言葉は全て真実である、というのが暗黙的前提となっているからだ。疑問を差し挟む余地はない。もし空気を読めない人が能天気に「それ本当ですか」みたいなことを言ってしまうと大変なことになる(どう大変かは趣旨が異なるのでここでは書かない)。だから「牧師の言葉=神の言葉」という図式が既に出来上がっている。

 そういう前提で「○○は神の御心です」と言われるものだから、もうこの○○は絶対なのである。○○こそが間違えようのない神の御心であり、△△でも××でもない。だから教会は一丸となって○○に突き進むことになる。ちょっとでもブレて△△の方に傾くなんてあってはならない。

 具体的な話をすると、たとえばこういうカルト教祖っぽい牧師がすぐ持ち出す話の一つに「新会堂」がある。
 ちょっと教会が活発になるとすぐ、
「新しい会堂を主の為に建てよう」
「主の宮をこの地に建てあげるのが我々の使命だ」
とかいう話になって、いつの間にか教会全体の悲願みたいになっている。予算をどうするとか、維持していけるのかとか、そもそも本当に必要なのかとか、そういう根本的かつ現実的な話し合いは一切ない。

 べつにみんながそれを願うなら新しい建物を建てたらいいし、豪勢な舞台でも高級な音響でも揃えたらいいと思う。それはそれで教会の自由であって、止める理由はない。でも問題は「それこそが御心だ」とされてしまう状況にある。つまりこの場合で言うと、新会堂を建てることが唯一絶対の御心になってしまって、決して逆らってはいけない、何がなんでも新会堂を建てあげる以外にない、という逆走禁止の一方通行になってしまう点にある。

  その結果、教会全体が新会堂のことばかりになってしまって、礼拝説教も祈祷会もその話ばかりになり、やれ準備委員会やら特別献金やらと、信徒もいろいろ駆り立てられていく。CSの子供が大人の真似をして「新会堂のためにお小遣いを献金します」とか言うと、感動の美談として長く語り継がれてしまう。それを聞いた大人がもらい泣きして、更に献金するようになるからだ。
 というのは私の教会で実際にあった話。

 けれど私の教会は解散になって、みんなの血と汗と涙の結晶であった新会堂もあっさりと他人の手に渡ってしまった。今はもう見る影もない。
 他にもいろいろな話があるけれど、そんなこんなで私は前述の「信仰には選択肢がある」に気付いた訳である。

  新会堂で言えば、それが唯一絶対で変更不能な神の御心だったはずがない。最初から。だいいち今考えてみると、キャパを越えた予算をかけてまで新会堂を建てなければならない明確な理由など一つもなかった。人で溢れていた訳でもないし、会堂が古すぎた訳でもない。どうしてもスペースが必要だったら近所のテナントなど賃貸すれば済んだはずだし、他にもやり方はいろいろあったはずだ。しかし私たちに与えられたのはただ一つの道、ただ一つの選択肢だけだったのだ(それはもはや選択とは言わない)。それが神様からのものと、どうして言えるだろうか。

 結局のところ、そこにも牧師のいろいろな嘘があった訳だ。そして私たちは「信仰には一つの選択肢しかない」と思わせられていた。
 唯一絶対に正しいことと、それ以外の間違っている全て。
 そんな図式であった。

 御心が一つしかない、というケースももちろんある。たとえば殺してはならない、盗んではならない、みたいなケースだ。そこには条件が揃えば殺していいとか盗んでいいとか、そういう選択の幅はない。
 けれど私たちが生きる現実の信仰生活においては、そういう白黒ハッキリしたケースの方がはるかに少ない。たとえば今日伝道するにしても、場所や日時や相手が神によって厳密に指定されるなんてことはない。しゃべる言葉や順序、相手がこう言ったらこう返せ、みたいな厳密なルールがあってそれを破れない、なんて不自由なこともない。他にも、私たちは教会を自由に選ぶこともできる。日曜の礼拝が複数回あるなら、好きな回に出席できる。この奉仕を絶対にしなければならない、なんてこともない。
 私たちには多くの自由が与えられていて、自分の信仰や聖書理解や良心に従って、何でも自由に選ぶことができるのだ。

 もしそういう自由がないなら、すなわち御心が一つしかなく、聖書解釈も一つしかなく、信仰の在り方も一つしかないなら、様々な教団教派や教会が現に存在していることの説明がつかない。

 という訳で教会の解散後、私は上記のような意味で自由であることに気付いた。それはそれで喜ばしいことだった。全ての強制や命令や束縛から解放されたのだから、ハッピーエンドと言ってもいいだろう。それは間違いない。

 けれど私が次に直面した問題は、じゃあどうすればいいんだろう? 何を選べばいいだろう? という問いだった。

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