カルトっぽい教会を離れた後の話

2015年12月12日土曜日

教会を離れた後の話

t f B! P L
 カルトあるいはカルトっぽい教会から脱会できたとして、それでハイ終わりとできないのが実際のところである。
 映画やドラマであればエンドクレジッドが流れてきてそこで終わりだけれど、人生はそこで終わらない。

 ただ脱会できたことが良かったか悪かったかと言うと、良かったんだと思う。脱会するのは信仰を捨てることでなく、信仰と思っていたイロイロな間違いに気づいた結果だからだ。間違いを正そうとした結果の一つなのである。

 であるならそれはハッピーエンドの括りに入るはずだけれど、いかんせん、なかなかそうもいかない。
 これは私の経験である。

  私の場合、脱会でなく教会そのものが解散となった。経緯はここでは書かない。ある日教会の活動が終わりになって、それっきりだ。もう存在していない。解散に至るまで目の前でいろいろなことが起きて、自分もそれに関わっていたけれど、それらがいったい何を意味するか、何の説明もなかった。いろいろな事情や都合に追われるようにして毎日が過ぎていった。映画ならナレーションや解説が入るところだろうけれど、あれは現実だった。それがカルトだったのかどうかも正直わからない。

 けれどカルトだったかどうかは全然重要ではない。
 たまにカルトの定義にこだわる人がいるけれど、私に言わせればカルトかどうかの定義など机上の空論だ。何の役にも立たない。厳密な定義が必要になる分野も当然あるけれど、教会に関してそれは当てはまらないと私は思う。つまり教会の中で何らかの被害が発生していて、それが信仰に基づくものでないのが明らかなのだけれど、ではそれを何と呼ぶべきか? という話になって「カルト」という言葉を出すと、「いやそれはカルトとは言わない」とか言われる。しかしそれがカルトであろうがなかろうが、被害は間違いなく存在していて、苦しんでいる人が存在している。私はその被害について語りたいだけで、そこを「普通の教会」とは呼びたくない(呼べない)だけだ。

 話を戻すと、教会の解散に至るまで、今起こっていることが何なのかという説明は何もなかった。当然だけれど。そして解散して、全員がポーンと投げ出されたような形になって、でもそれぞれがそれぞれの人生の続きを歩んでいくのである。状況が状況だったから、信徒どうしの繋がりはほとんど消滅してしまった。連絡を取り合う関係が継続していればまだ良いのかもしれないけれど、私の知る限りそういうやりとりすごく少ない。

 だから私たちは教会に関する全てを一度に失ったのである。建物も、信徒も、コミュニティも。そして何も残っていない。残ったのはこれからどうやって生きていくべきか、という差し迫った問題だけだった。

 それから何年も経つ。私はどこかでこう期待していた。いつか誰かがやってきて、皆を集め、この教会で起こったことは○○だったのです、とちゃんと説明してくれるということを。しかし当然ながらそんなことは起こっていない。今後も起こらない。

 だから私たちはそれぞれで、何らかの答えを出す以外になかった。そして未だに答えが出ていないんだと思う。あるいは答えなどないのかもしれない。あるいは答えを出すこと自体に意味がないのかもしれない。

 たとえば自分の中学時代なり高校時代なりを振り返ってみて、「あれはいったい何だったのか」と振り返るとする。けれどその答えは、同級生全員に共通するものにはならないはずだ。ある人は野球漬けだったかもしれないし、ある人は吹奏楽一筋だったかもしれない。ある人は勉強三昧だったろうし、ある人は無為に過ごしてしまったと後悔しているかもしれない。だから起こったことに意味を付けること自体、あまり意味がないのかもしれない。意味はそれぞれで違うのだから。

 しかし教会被害とか信仰被害とかいうものは、 それでは済まされないようにも思う。

 そうこうしているうちに時間だけが過ぎていき、記憶がだんだん薄れていく。このまま風化が進み、いつかすべて消え去ってしまうのだろうか。けれどいろいろな教会や牧師や信徒の発言や行動を見ていると、かつての私たちとすごく似ていたり、同じだったりする。私たちと同じ過ち、同じ問題、あるいはその可能性があちこちにあって、それに気づいてる人が少ないのである(気づいていれば解決されているはずだから)。

 そう思うと私はやはり黙っていられないし、記憶を風化させてはならないと思う。

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