【雑記】パリのテロ事件について礼拝説教で触れる牧師がいると思いますが

2015年11月15日日曜日

時事問題

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 日本時間の14日早朝、フランスのパリで大規模なテロが発生し、128名の死者が出ました。大変痛ましい事件であり、被害に遭われた方々やそのご家族、関係者の方々の心中を思うと、言葉もありません。亡くなられた方々のご冥福を祈らせていただくばかりです。

 当然ながらテロはなくすべきだと思います。しかしながらそんな綺麗事を言っていてもどうにもならない現状があるのもまた事実だと思います。
 またテロに限らず、世界中のいろいろなところで様々な事件事故が起きていて、それこそ突然に、命を失ってしまう人々がいます。こう言っている私自身も含めて、それがいつ誰に起こるかわかりません。今朝家を出たきり、二度と戻れない、ということも残念ながらあるでしょう。

 こういう話で私がいつも思い出すのは、小学校時代の同級生のことです。
 彼は母子家庭で、母一人、子一人で暮らしていました。ある放課後、彼の家に遊びに行きました。ちょうど母親が出掛けるところで、簡単な挨拶をしたのを覚えています。
 何時間か経って、電話が鳴りました。友達が出ました。話しているうちに友達の表情が消えていくのがわかりました。後から知ったのですが、母親が交通事故に遭い、病院に運ばれたけれど、亡くなられたのでした。
 友人のお母さんと簡単に挨拶しただけですれ違ったことを、私はとても後悔しました。もちろんそんなことになるなんて誰にも想像できなかったでしょうし、仕方のないことだったと思います。けれどそういう理屈では納得できないものが、私の心に残りました。実は今もまだ残っています。
 あのとき、私は沈む友人に声をかけることができませんでした。何と言うべきだったのか、いまだにわかりません。おそらくどんな言葉でも不十分だったのではないかと思います。

 そのとき私はシンプルな事実に気づきました。人はいつ死ぬかわからない、という事実です。当たり前のことなのですが、これをリアルに受け止めるのは案外難しいと思います。その証拠に、今日どこかに出掛ける人は、また家に帰ってくると信じて疑っていないでしょう。けれどそれは確約された未来ではないのです(もっとも確約された未来などありませんが)。

 パリのテロ事件をみて、またそんなことを考えました。
 そのとき私はカフェにいたのですが、すぐ隣に若いカップルがいて、ディズニーランドについて話しているのが何となく耳に入っていました。どういうコースで回ったらいいとか、雨が降ったらこうしようとか、ターキーレッグは絶対食べたいとか、そういう話です。微笑ましい話なのですが、テロ事件の記事を読んでいる私はなんとも不思議な感覚を覚えました。人々は今日もどこかで、それぞれ関係なく生きている訳です(それがいいとか悪いとかいう話ではありません)。

 ところで今日は11月15日の日曜日で、たぶん日本中の教会で主日礼拝が持たれると思います。おそらくプロテスタントの、福音派とか聖霊派とかの教会で、説教でこのテロ事件に触れる牧師が少なくないと思います。
 説教で何を話そうが自由ですし、信徒の皆さんがそれで満足できれば何も問題ないと思いますが、願わくば「配慮」をもって話してほしいものです。
 というのは、その手の話題で全然配慮できない牧師とか信徒とかがいるからです。
 たとえば、私たちはテロのない国に住んでいて良かったとか、今回の事件にも何らかの意味があるから被害者らの死は無駄ではなかったとか、この犠牲を通して主の栄光が現されるとか、遺族の前で言えるのか大いに疑問な話を、したり顔でする訳です。

 あるいは「犠牲になった方々のために祈ろう」という話になったときに、「いやいやテロリストの救いのためにも祈るべきでしょう」とか言う人が必ずいて、それ自体全然間違っていないのですが、空気を読めていないというか、配慮ができていないというか、なんとも見当違いな話になることがあります。「皆にはない視点を持っている特別な自分」をアピールしたい気持ちはわかりますが、そういう祈りの場では差し控えるべきでしょう。

 今日持たれる礼拝で、そういう見当違いなことがなければいいなと思います。

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