クリスチャンが教会に定着できない(しない)理由について考えてみた・その4

2015年10月19日月曜日

教会生活あれこれ

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 クリスチャンが教会に定着できない(しない)理由について、シリーズで書いている。今回は4回目。
 バックナンバーはこちらから。

 私が勝手に想像する、クリスチャンが教会に定着できない理由は、次のようなもの(再掲)。

①奉仕を求められるのが苦痛
②毎回献金しなければならないから
③時間的にも人情的にも拘束されるから
④牧師とうまくやれないから
⑤教会の雰囲気が合わないから
⑥正直つまらないから

 今回は⑤と⑥について。

⑤教会の雰囲気が合わないから

 これは前回も書いたけれど、牧師の権力が強い教会(牧師がそう言わなくても事実上そうなっている教会も含む)においては、教会の雰囲気はほとんど牧師が作っている。だからある人にとって教会の雰囲気が合うか合わないかは、牧師との相性の善し悪しと直結している。

「なんかこの教会の雰囲気は自分に合わないな」と感じたら、たぶん牧師とも相性が合わない。ちょっと極論だけど。

 でもまあ基本的に教会はどこでもいいはずで、合わないなら行かなければいいだけだ。無理して行く必要はない。もっと自分に合いそうな教会(それは教会の優劣の話ではない)を探せばいいし、友達に聞くとかしてもいいだろう。
 常々思うのだけれど、この教会はこんな雰囲気、ってことがわかるサービスがあったらいいと思う。雰囲気で決めるなって怒られそうだけど。たしか教会年鑑みたいな本が毎年出版されているはずだけど、あれだと雰囲気まではわからないし。

 ところで教会をどう選ぶか、という文脈でよく引き合いに出されるのが、「自分が植えられるべき教会がある」という考え方だ。これは一部のクリスチャンにはけっこう信じられている。クリスチャンはそれぞれ決められた教会があって、そこで仕えて成長することが御心だ、みたいな感じ。聖書的根拠は詩篇16篇の「測り綱」の箇所なんかだと思う。教会を離れようとする信徒をそういう論理で説得する教会(牧師)もある。

 けれどそれは運命論か、その延長にある話だ。あなたは運命的にこの教会に所属することになっていた、ここで教会(牧師)に仕えることが御心だった、みたいなことを言う牧師がいるけれど、それは信仰とか神からの預言とかじゃない。単に信徒を教会に繋ぎとめておきたいだけだ。なぜなら聖書が支持するのは個人個人の自由意思による自由選択であって、抗えない運命ではないからだ。

 しかしもしある個人の教会が運命的に決められているとしたら、話は全て運命論になってしまう。するとたとえば、イスカリオテのユダはキリストを裏切るべくして裏切ったことになる。つまり彼の裏切りが彼自身の自発的な選択でなく、「運命」という見えない力によって強制されたことになってしまって、そうすると彼に罪はない。もしかしたら彼は裏切りたくなかったのに、不思議な力によって裏切る羽目になってしまった、みたいな話にもなる。

 それと同じ意味合いで「あなたはこの教会に植えられるべきだ」と主張する教会があるけれど、その考え方は聖書信仰から逸脱している。

⑥正直つまらないから

 友達を教会に誘ったことがあるだろうか。
 私は何度かある。ほとんどの友人は、好奇心か付き合いかで一度は来てくれる。けれど二度と来ない。それと同じような話はよく聞く。

 来ない理由はイロイロだろうし、いい大人ならあまり否定的なことは言わないだろう。けれど一つハッキリ言えるのは、一般の人が教会に来ない(あるいは二度と来ない)理由は、そこに価値を見出していないからだ。価値がないと判断したら誰もそこに注意を向けない。当然だけれど。

 ただしここで言う「価値がない」とは、教会や聖書や神様にそもそも価値がないという意味ではない。クリスチャンにとってそれらは非常に価値あるもののはずだ。けれど一般の人にはそうではない、という意味だ。なかなか価値を見出だせない。そしてそれは彼ら自身の責任ではない。

 この「価値を見出だせない」状態をみて、
「ノンクリ(未信者)だからわからないんだ」
「彼らは霊的なことがわからないからね」
とか言うクリスチャンがいるけれど、痛々しいことこの上ない。「霊的」でないとわからない価値なんて、本当の価値ではない。
 たとえばキリストの時代、キリストが積極的に通ったのは娼婦とか取税人とかのところだった。今で言うと新宿歌舞伎町あたりに足しげく通うようなものだろう。娼婦とか取税人とかはもちろん霊的でも何でもなかったはずだ。けれど彼らは、キリストの価値だけはよくわかった。

 つまりそのものの価値がわかるかどうかは、霊的とは関係ない。「霊的」を振り回す人たちはその意味についてよくよ考えてみる必要がある。

 ある中学生が教会にはじめて来た。その教会は教会学校をしていなかった。だからその子は大人と同じ礼拝に出席した。
 礼拝後、たまたま話す機会があって、その子に礼拝の感想を聞いてみた。いわく、「意味がわからなくてつまらなかった」とのこと。子供らしい正直で素直な感想である。

 その子の話をまとめてみると、どうやら説教中の専門用語が多かったことと、そもそも話の意味がわからなかったことと、話そのものが長かったことと、皆が連呼する「アーメン」が気持ち悪かったこととが問題らしい。その後、いくら誘ってもその子は教会に来なかった。正確に言うなら、礼拝には来なかった。

 ちなみにその子は、礼拝以外の時間に教会によく来た。礼拝するわけでもなく、賛美するわけでもなく、聖書勉強をするわけでもなく、ただ他愛もない話をしに来ていた。きっとその子は、教会の何かに価値を見出だしたのだと思う。

 これは商売の話に通じるものがある。
 つまり商品は、価値が見出だされないと購入されない。そしてその価値を決めるのは作り手側ではない。買い手の方だ。買い手が価値を認めることで、商品ははじめて購入される。作り手側がいくら製作過程の困難さアピールしても、素材や工法の良さを宣伝しても、頑張って低価格にしたことを紹介しても、その価格に見合う価値がなければ誰も買わない。

 教会にも同じことが言える。教会全体が伝える神様なり聖書なり信仰なりの概念が未信者の心に響くものでなければ、あるいは礼拝なり賛美なり祈りなりに心を動かす何かがないのなら、見向きされない。
 結果、子供の言葉を借りるなら「正直つまらない」ということになってしまう。

 ただ一つ、誤解のないように書いておくと、だからと言って教会は未信者にも楽しめるエンタメ系施設になれという話ではない。よく「未信者を獲得するため」という文脈で教会でファッションショーをやったり、スポーツ大会を企画したりする教会があって、それはそれで自由にやればいいのだけれど、それで「教会って楽しいところ」というイメージを与えておいて後から礼拝はかくあるべし、祈りはかくあるべし、みたいな話をするのは、ハッキリ言って羊頭狗肉だ。

 楽しいのは結構だけれど、それで教会としての価値はどこにあるのか、という問いにはちゃんと答えられなければ、本末転倒なことになってしまうと私は思う。

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