捏造される「霊的意味」について

2015年10月1日木曜日

「啓示」に関する問題

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 前回は「イスラム国」によって拉致・殺害された後藤さんについて、一方的な「霊的意味」を展開していた某ブログを取り上げてみた。今回はそんな風に捏造されていく「霊的意味」について考えてみたい。

 聖霊派クリスチャンの教会生活の一コマとして、たとえば次のような「祈りのミーティング」の場面がよく見られる。

A「じゃあ今日は、みんなで○○の為に祈りましょう。しばらく異言で祈って、それぞれ示されたことをシェアして下さい」
一同「アーメン」
(しばらく「異言」モドキの祈りが続く。次第に盛り上がり、叫び出す人までいる。やがて収束し、静かになる)
A「だいぶ祈りが積み上げられましたね。ではBさんから、示されたことをシェアして下さい」
B「○○については△△だと語られました」
一同「アーメン」
C「私は聖書のこの箇所が示されました」
一同「アーメン」
D「○○は△△であると同時に、××でもあると語られました」
一同「おおー。アーメン」
E「私も○○は××だと語られました」
一同「アーメン」
F「○○は結局のところ、●●だと主が示しておられます」
一同「おおおー。アーメン」
G「私は聖書のこの箇所が示されていましたが、兄弟姉妹のシェアを聞いていて確信が来ました。○○は▲▲なのだと」
一同「おおおおー。アーメン」
A「ふむ。霊的情報が揃いましたね。私も実は初めから、○○は▲▲だと示されていました。皆さんのシェアを聞いていて、本当にそうだと確信しました。○○は▲▲なのです!」
一同「アーメン!」
(また盛り上がって祈りが始まる)

 すごく「霊的」で「啓示に満ちた」ミーティングに見える。
 けれどこういう「祈りのミーティング」の特徴は、

・あとで語られたことを皆にシェアしなければならない。
・だから祈って「語られる」ことが前提になっている。
・だから「何も語られなかった」とは言えない(言いづらい)。
・何も「語られない」と不信仰な気がする。
・先輩クリスチャンなら余計に「すごい啓示」をシェアすべきというプレッシャーがかかっている。

 というようなことだ。
 だから「何が何でも神様に語られて、皆がアーメンしてくれるような霊的意味を披露しなければ」という心理状態に多くのクリスチャンがなる。たまにそういうことを全然気にしない人もいるけれど、多くの人はそうではない。

 で、どうなるかと言うと、「△△と語られている気がする」「○○はきっと△△なのだろう」みたいな推測でモノを言いだす人が出てくる。そして彼らはそれを「推測」でなく「語られた」と信じるようになってしまう。

 けれど、たとえばどこかで自然災害が起きて、そのために祈ってみて「これは神からの警告だと示された」とか「これを通して主の御業が現されると語られた」とか言う人がいるけれど、そんなこと誰でも思いつくし、予測の範囲内だし、わざわざ「啓示」されなくても察しがつく。それに「啓示」にしては抽象的過ぎる。

 聖書をみると、それが神様からの啓示かどうかを確かめる一つの指標として、「予測不能性」というのがある。誰も想像できない、思い付きもしない、というような事柄だ。そしてもう一つは「具体性」だ。何がどうなるのかハッキリ語られており、それが寸分違わず実現する、ということ。聖書に描かれている「預言」は、この二つを兼ね備えている。
 逆に言うと、そういう指標が満たされないなら、それが神様からのものと証明することができない。簡単に思い付く抽象的な事柄なら、どこの誰にでも言えるからだ。

 だから先の「祈りのミーティング」で言えば、「語られた」ということでシェアされる内容が、どれも簡単に予測できたり抽象的だったりする。でもそういう内容が「アーメン」「ハレルヤ」と受け入れられてしまうので、言う方はどんどんエスカレートしてしまう。そして自分の勝手な「思い込み」を、「主の御心」と言い張るようになっていく。

 結果そういうミーティングは、ただの「ホラ吹き大会」になってしまう。何かすごいことを言おう、皆を驚かそう、みたいな動機になっているからだ。だから彼らは「主がこう言われる」を連発するけれど、かなり怪しい。神様が脇でそれを見ているとして、どう思われるのかとても興味深い。

 先のミーティングの例のように、彼らの元々の動機は、「神に語られねばならない」というようなものだったはずだ。あるいは「神は語って下さるはずだ」とか、「自分には罪がないから神の声が聞こえるはずだ」とか、そういうものだったと思う。けれど明確に「語られた」感じもなく、でも何かをシェアする必要があって、結果的に「こうではないか」という推測とか思い込みとかいうものを「語られた」と言ってしまう。そういう構造は少なからずあると思う。

 その構造は必ずしも、「捏造」ではないかもしれない。祈りに祈ってふと心に浮かんだものを「主から語られた」と都合よく考えてしまったかもしれない。
 けれど間違いは間違いであり、嘘は嘘である。先のミーティングのような状況に心当たりのある方は、ちょっと反省してみることを私は強く勧める。

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