「目覚めよ!」という寝言について・その2

2015年9月14日月曜日

「啓示」に関する問題

t f B! P L
 他人に「目覚めよ!」とか言う寝言について。2回目。

「今、主が○○と語られている。それに気づかないあなたがたは目覚める必要がある」という論法で「目覚めよ!」と語られる時、その○○の正誤を判別できないことが多い。基本的に曖昧な、抽象的な内容だからだ。たとえば「日本は新しい季節を迎えている」とか言われても、それで何をどうするのか、何が起こるのか、一つもわからない。だから正しいとも間違っているとも言えない。
 でも日本中のそういう人たちの(教会内での)主張を総合してみると、Aは○○と言っていて、でもBは××と言っていて、あっちではCが△△と言っている、みたいな感じで、結果として相互矛盾していることに気付く。それで彼らの誤りや嘘や思い込みを判別することができる。
 と、いうのが前回の話。

 今回は、ではなぜそれらが教会内で信じられてしまうのか、という話。

 前回も少し触れたけれど、教会内で「目覚めよ!」と主張するのは、影響力と発言力のある少数の人たちだ。霊的なことであろうとなかろうと、彼らが何か言うと、基本的に何でも通る。

 よく初めて参加する研修会か何かで、初対面どうしが何人か集まるとき、一番最初に発言する人とか、なんとなくその場を仕切っている人とかいるけれど、そういうタイプが多い。ほとんど生まれながらに、あるいは自然に、集団を引っ張るようにできている人たちだ。
 そしてそれ自体は悪いことでもなんでもない。

 ただ教会という特殊な環境だと、それが大いに問題になることがある。
 一般的に、クリスチャンと言えば「優しい」とか「寛容」とかいうイメージがあるかもしれない。最近はそういう「やわい」イメージをぶち壊すのが(一部で)流行っているようだけれど、基本的にクリスチャンってやっぱり優しいんだと思う。私の周囲を見回してみてもそうだ。厳密なことを言えばその腹の中はわからないけれど、みんな基本的に優しく親切で、人をよく気遣う。

 だからそういう人たちの中で、少し尖った人が「今主がこう語られている」とか強く言うと、「ああそうなんですね」とか「確かにそういう感じがします」とかいう反応が返ってくる。つまり「受け入れられる」わけだ。

 たとえば(あくまで例としてだけど)、日曜の礼拝後に何をしようか、という議題が教会で話し合われる。多くの人は「ゆっくり食事と交わりの時間にしましょう」とか言うかもしれない。「なにかレクリエーションでも」という声もあるかもしれない。でもそんな中、「伝道に行くべきです。私たちの受けた恵みを人々に分かち合うことこそ主の御心です」とか言う人がいると、なかなか反論できない。一応正論だからだ。(ちなみにこの例、日曜に何度も礼拝する教会には当てはまらないのであしからず。)

 とにかくそういうような話が何度か続くと、教会内で「いつも主に語られる人」と、「いつも何も語られない人たち」という構図ができていく。あるいは「霊的なことを言う人」と「そうでない人たち」と表現してもいい。とにかくある特定の人がいつも主に語られて、そうでない人たちは何も語られず、語られる(という)人の話を一方的に聞くことになる。すると教会全体が、特定の人たちの「語られた」ことに従って動くことになる。

 それが本当に主から語られたことなのか、という検証は一切なされない。そこが一番の問題なのだけれど、一番触れられない部分でもある。

 そういう構図が教会の文化になると、どんなことが起こるか。
 たぶん、「何も語られない人たち」の中に、「語られる人になりたい」という願望が生まれる。人は基本的に支配されるより支配する方が好きだからだ。そこには「信仰のレベルアップがしたい」みたいな認識もあるだろう。それで頑張って祈って、賛美して、聖書を読んで、なんとなく「語られた」気になって、「今主がこう言われる」みたいなことを言い出す。それが会衆に受け入れられれば、おめでとう、「語られる人」に昇格である(頑張って認められようって発想が単なる律法主義なんだけど)。

 よく考えると、そこには
「霊的に見えるかどうか」
「それらしく語れるかどうか」
「魅力があるかどうか」
「牧師に気に入られているかどうか」
 みたいな基準があって、そういうのを全部クリアしないと「語られる人」とは認められない。案外厳しい(?)世界である。

 とにかくそういう過程を経て、教会内で「目覚めよ!」と指摘する特定の人と、指摘されるその他大勢に別れていく。
 つまり、一般社会となんら変わらない。目に見える能力がある人にとって有利な世界。
 あれ、教会ってそういうところだっけ? 違うはずなんですけどね。

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