クリスチャンと「許し」・その2

2015年9月2日水曜日

クリスチャンと「許し」

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 クリスチャンと「許し」についてのアレコレ。2回目。

 前回のポイント。
「許し」は本来良いものだけど、(ひどい目に遭っても)許さなければダメだ、許さないと祝福されない、みたいな強制になると一転して凶器になる。許すべきだとしても時間のかかることは沢山あるし、感情的に到底困難なケースも沢山ある。そういう事実を無視して「許しなさい」を振り回すのは、信仰ではない。

 今回は「許しによる自己保身」とでも言うべき事態について書きたい。

 さっそく事例だけれど、ある牧師が軽くない罪を犯した。初めは否認していたけれど、決定的な証拠を提示されたら態度を一変、罪を認めて泣き崩れた。そして何人かの事情を知る人間に(だけ)謝罪した。
 その牧師の性格からして、たぶん証拠がなかったら認めなかったと思う。何とか言い逃れようとしただろう。だから証拠を見せられてからの「謝罪」→「泣き」は演技っぽい。

 牧師の謝罪にもそれは表れていた。「被害者を守るためにこの件は公にすべきでない」などと言って情報が漏れないようにして、一番知らせるべき人たちには何も知らせなかった。だからその人たち(一番の被害者である)には謝罪もしなかった。謝ったのは事情を知るごくわずかな、それも直接的には関係ない人たちにだけだった。

 けれどそういう牧師の悪あがきも虚しく、結果的にこの件は公になった。すると牧師は姿を消して、以降、何の謝罪も補償もないままになっている。今に至るまで。

 たぶんこの件に興味のある人もいると思うけれど、本記事の趣旨から外れるので、ここでは書かない(もし興味があったら非公開と書いてコメント下さい)。
 それより重要なのは、その後の牧師の言いっぷりである。
オレは悔い改めたのに、教会のやつらが許さない。クリスチャンなら許さなければならないのに許さないあいつらは悪魔だ
 複数の信頼できる関係者から、上記のような発言をしたと確認している。私自身その牧師をよく知っているけれど、すごく頷ける。自分を正当化するためなら何とでも言うだろう。

  肝心なことなのでもう一度書いておくけれど、その牧師が謝罪したのは罪の発見者(直接的には関係ない人たち)に対してであって、直接的な被害者たちに対してではない。

 この状況をわかりやすくするために例を出すとこうなる。ある小学生Aが同級生Bを殴って、Bの新しいノートを破って捨てた。あとから教師に呼び出されて叱られたので、教師には謝った。あとからちゃんとBにも謝ってノートを弁償するよう言われたけれど、Aは1つも実行しなかった。
 後日、それを知った教師がまたAを呼び出して叱ったけれど、Aいわく、「もう謝ったじゃん。許さないそっちが悪いんじゃん

  その対応じゃダメだってことはたぶん小学生でもわかるけれど、その牧師には通じないようである。何を悔い改めたのか全然わからない。そもそも関係者らには何の謝罪も補償もしていないのだから、「悔い改めの実」など少しも結んでいない。それで「悔い改めたのに・・・」などと言うことはできない。誰にでもわかることだろう。

  けれど現実とは怖いもので、そういう内部事情を知らない第三者がこの話を牧師本人から聞くと、全然違う印象を持ってしまう。すなわち次のような感じ。

「牧師は罪を犯してしまったけれど、ちゃんと悔い改めた(と本人が言っているからそうなんだろう)」

「なのに教会側が頑なに牧師を糾弾し続けている(と本人が言っているからそうなんだろう)」

「牧師はなんとか話し合おうとしたけれど、教会側が取り合ってくれない(と本人が・・・以下同文)」

「この牧師先生、教会に裏切られてかわいそう」

 という訳でなんと被害者が加害者になってしまう。そして加害者があわれな被害者になってしまう。真の被害者にとって散々な状況である。こんなことあってはならないけれど、現にある。ここでこそ「主の憐みを・・・」と祈るべきだろう。

  という訳で「許し」をうまい具合に使うと、自己保身の道具になるので注意を要する。って話。

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