クリスチャンと「悪霊」の関係

2015年8月8日土曜日

「悪霊」に関する問題

t f B! P L
 当ブログへ流入した検索ワードで「クリスチャンと悪魔」というのが最近あった。
 どういう意図で検索されたのかわからないけれど、たぶん関心のある方も多いと思うので、このトピックでちょっと書いてみたい。

「悪魔」は聖書中に少なからず登場し、今も活動中であると書かれている。だからそれが存在していると考えるのは、クリスチャンであればごく自然なことであろう。
 けれど最近あった「油事件」に見られる通り、「悪魔」の存在が必要以上に、しかも間違った形で取り上げられる傾向が一部にある。たとえばある事象の背後に悪魔が働いているから、実際的に戦わなければならない、ということで油を撒いたり怒鳴ったり、そんなような状況がある。

  しかしそれらは(以前から書いている通り)、何も証明できないし、効果を判定できない。本当に悪魔が隠れていて油なり叫び声なりで撃退したと証明することはできないし、その事象が目に見えて(霊的とかじゃなくて)明らかに変化した、これは超自然的現象としか説明できない、みたいな話も聞かない。

 彼らは「目に見えないものを信じるのが信仰です」とか言うだろうけれど、結果的に目に見える変化なり成功なりがないと、その信仰は完全に虚しい。確かに「まだ見ていないもの」を信じるのが信仰だけれど、「まだ見えないしこれからもずっと見えることのないもの」を信じるのは、信仰とは言わない。
 たとえばある人が「自分は一億円持っている」と完全に(微塵も疑わず)信じていたとしても、生涯に渡って一億円持つことがなかったとしたら、その人はどれだけ信じていても一億円を持っていない。当たり前の話だけれど。それは信仰というより妄想である。

 だから「霊の領域」でどれだけ凄まじい事象が起きたと主張しても、たとえばメガトン級の(霊の)超大爆発が起きて日本中に群がる悪魔どもが一掃されたとしても、実際にこの目に見える何かが変化しないなら、その大爆発はアリ一匹殺していない。机の上のチリ一つ吹き飛ばしていない。つまり無意味。

 ちょっと話が反れたけれど、こと「悪魔」に関しては、そういう話からすべきだと思う。悪魔だサタンだと殊更に強調し、「でもキリストの御名を使えば大丈夫」とか安易に考えるのが、「霊の戦い」系のクリスチャンの特徴だからだ。彼らの言っていることがどこまで本当で、ちゃんと証明できるのか、(水を差すようで悪いけれど)しっかり確認すべきだ。

 そしてそのポイントは、どれだけ大きな話かでなく、現実に何がどれだけ変わったか、である。

 ところで悪霊との戦いが大好きな人たち、特に牧師とかミニスターとか呼ばれる人たちには、だいたい「すごい悪霊撃退談」がある。一例を挙げるとこんな感じ。

■すごい悪霊撃退談(実際に聞いた話をちょっと脚色)

  海外で、日本人教会を開拓した牧師の話(この手の話はなぜか舞台が海外であることが多い)。
 あるとき、そこの信徒Aが病院に入院した。ひどく騒いで暴れているという。心配した信徒Bが、牧師に連絡をよこした。「Aさんの様子が変です。先生、すぐに来て下さい」
 それで病院に駆け付けた牧師が見たのは、半狂乱になって暴れる信徒Aの、無残に変わり果てた姿であった。
 ちなみにAさんはもともと品行方正を絵に描いたような人で、まじめで優しく思いやりに溢れる人物である(なぜかそういう人であることが多い)。そのAさんがどす黒いギラギラした目をして、髪をかきむしり、半裸の状態で周囲の看護師らに危害を加えようとしている。まるで別人のようだ。
 そこで信徒Bが言う。「先生、Aさんは悪魔に憑かれています! どうか追い出して下さい!」
 それで牧師が祈り始めると、Aさんの様子が見る見るうちに変わっていく。より凶暴な目つきになり、体が一回り大きくなったようにも見え、声もすごく低くなっている。そしてAさんの口から、まったく別人のものと思われる声が発せられる。「おのれ~、キリストの弟子たちめ~」(←ホラー映画のノリで読むべし)
 そこで牧師は少しひるむのだけれど(←パターン)、勇気と信仰(?)を振り絞って、Aさんを怒鳴りつける。「おのれサタン、イエス・キリストの御名によって、この人から出ていけ!」
 すると断末魔の叫びが聞こえてきて、Aさんの体がフッと軽くなって、その場にくずおれる。病院関係者らもびっくり。すやすや眠るAさんは、いつもの優しい表情に戻っていた。めでたしめでたし。

 だいたいこんな感じの話。
 完全に「エクソシスト」系のストーリーである。
 ちなみにある「大宣教師」の談によると、インドネシアではプロテスタントの牧師の地位は非常に高いらしい。なぜって「悪霊追い出し」ができると政府も認めているから(?)だそうだ。でも、あのー、インドネシアの宗教って9割イスラム教なんですけど・・・。

 それはいいとして、こういう類いの話はどれも似通っている。まず間違いなく「海外での体験」だし、普段おとなしい人が悪魔に憑かれて豹変するとか、体型も声も別人みたいになるとか、すごい怪力で暴れ回るとか、そして最後は牧師の祈りで撃退されるとか、話の基本構成は一緒だ。舞台も大抵病院や刑務所とか。だから目撃者も大勢いるはずで、だったらもっと有名な事件になってマスコミに騒がれてもいいような気がする。

そして何の映像も証言もない。もちろん(事実だとして)状況が状況だから、映像に残す余裕がなかったかもしれない。けれどそんなに多くの「悪霊撃退談」があって、かつこれだけスマホが普及し、動画投稿が簡便化・日常化した社会にあって誰一人そういう投稿をしていないのは、その存在そのものが怪しいという証拠に他ならないと私は考える。

 いずれにせよこの手の話は、その牧師なりミニスターなりの言うことを信じる以外にない。そして教会でこういう話をされると、信徒らは大抵信じる。牧師との付き合いの長さが、その話に真実味を与えるからだ。そしてその話があたかも重大な秘密のように扱われ、一般人には理解できないだろうけど私たちは真実を知っている、みたいな特別意識の育成に一役も二役も買うことになる。

 現に「悪霊撃退談」 を信じるクリスチャンの大半は、実際に自分自身でそれを見たことがない。聞いた話を全部鵜呑みにしているに過ぎない。だから厳密に突き詰めていけば、それが真実かどうか、誰にも証明できない。みんなが信じているから・・・、あの先生が言うから・・・、みたいなことしか、信じる根拠がない。

 もちろん何を信じるかは人の自由だけれど、信じる根拠がどこにあるかはよくよく考えるべきだと思う。たぶん上記の教会の人たちは「見ないで信じなさい」みたいなことを言われていると思うけれど、それは神に対する信仰の話であって、誰かの話をそのまま信じろという話ではない。

 もし牧師の話を全面的に信じなければならないとしたら、次に何を言われるのか、あなたは恐怖ではないだろうか。「悪霊撃退談」を信じているうちはまだ可愛いけれど、そのうち「○○円をただちに献金するよう神が導いている」とか、「あなたは○○しなければならない」とか、あなた自身に何かが降りかかった時、あなたは同じように、「見ないで信じる」ことができるだろうか。

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