「祝福」に関する勘違い・その2

2015年8月20日木曜日

クリスチャンと「常識」

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「祝福」に関する勘違いについて。2回目。
 前回は「クリスチャンの人生は祝福だけ」「繁栄だけ」という考え方の問題点について書いた。今回はそういう生き方の問題点について書きたい。

■「祝福」についての決めつけ

 クリスチャンの人生は全て祝福である、という考え方はユートピア的・魅力的に見えるかもしれない。けれど実際の人生は山あり谷ありで、それはクリスチャンも例外ではない。良い日もあればそうでない日もあるし、元気な日もあれば元気でない日もある。それはごく普通のこと、自然なことだ。そういう浮き沈みが少ない人はいるだろうけれど、完全にない、ということはあり得ない。誰もが何かしらの葛藤なり課題なりを抱えて一喜一憂しながら生きている。

「クリスチャンになれば救われる」というのは、全ての問題から解放されてハッピーになる、ということではない。けれど信じたばかりの人は往々にしてそういう幻想を抱きやすい。
 もちろんまともな教会ならそれが幻想であることに早々に気づくだろうけれど、一部の「霊的な」教会だと、なかなかそれに気づけない状況があって注意を要する。すなわち「信仰に進めば進むほど祝福され、災いは遠ざかる」「だから信仰に生きる限り祝福され続ける」みたいな話をされるからだ。前回も書いた通り、そこには「信仰=祝福=富とか名声とか」「不信仰=呪い=貧乏とか不名誉とか」みたいな図式がある。

 有名な「主の祈り」の一節、「我らを試みにあわせず、悪より救い出だしたまえ」は、彼らにとってその保障みたいなものだ。つまり信仰者は試練を回避することができ、悪から救われるのだから、不利な状況に追い込まれるはずがない、みたいな考え方。逆に言うと、不信仰だったり罪があったりするからイロイロうまくいかないんだ、という決めつけになる。

■「祝福」の捏造

 けれどその決めつけが、かえって彼ら自身の首を絞めることになる。
 なぜなら信仰に進んでいると思われたいなら、あるいは不信仰に思われたくないなら、 何が何でも「祝福されている自分」を見せなければならないからだ。彼らにとっても「祝福」だけが信仰の答えなのだから。

 だからいつも「とても祝福されてます」「祝福でもうお腹いっぱいです」「毎日祝福の洪水です」みたいなことを言う。けれどイロイロ浮いたり沈んだりするのが人生で、いつもいつも笑顔でいられる訳ではない。それは皆同じ。けれど不幸そうな顔を見せる訳にはいかないので、いつも人前では笑顔で「祝福されている自分」を見せることになる。

 しかしそれはポジティブ・シンキングの延長みたいなもので、本当に祝福されているかどうかはまた別の話だ。彼らの作り笑いでその祝福の度合いを測ることはできない。

 近所にマルチ商法まがいの店があって、よくその前を通るのだけれど、雰囲気が「霊的」を強調する教会にそっくりだ。明るくきれいな店内で、いつも着飾った男女が楽しそうに話している。大げさな笑い声がよく聞こえてくる。悩みなんてありません、苦しいことなんて全然ありません、みたいな空気を意図的に作っている。完全に同じではないけれど、いわゆる聖霊派教会にもそんな雰囲気がある。

 けれどそれは「祝福」の捏造であって、べつにいつも特別な何かが起こっている訳ではない。祝福いっぱいムードと作っているだけで、見た目を取り繕っているに過ぎない。
 あるいはいつも特別なことが起こっていると言うかもしれないけれど、蓋を開けるとたとえば「再臨雲が見えた」とか、「御言葉が強く示された」とか、ふと見た時計の長針と短針が自分の好きな聖書箇所と同じだったとか、気のせいだろって話ばかり。どこまでポジティブなの。

■あるいは自己暗示

 とは言っても、意図的に「祝福」を捏造しているとは限らない。マルチ商法ならうまいこと言って騙してやろうという意図が明確にあるのだろうけれど、キリスト教会の場合、そういう意図は少ない気がする。それより彼らが「祝福されるはず」と信じる信仰そのものが、自己暗示的に働いて、都合の良い解釈の数々を生み出しているように思える。また皆でやれば「気のせい」も「真実」になる、という集団暗示も関係しているだろう。

 もちろんそれらを量的にデータ化して証明することはできないだろう。けれどデータ云々の話をするなら、(そして彼らの主張が正しいなら)クリスチャンが毎日祝福の連続でウハウハ状態なのに日本のクリスチャン人口がいまだ1%未満、という現状をどうにも説明できない気がする。

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