その「霊的意味」って単に自分の都合でしょ、って話

2015年8月15日土曜日

キリスト教系時事

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 数日前の夜、中国の天津で大爆発が起きて、翌朝からさっそくニュースになっている。多くの死傷者が出ているようだけれど、原因も被害状況もまだまだ明らかになっていない。

 ところでこの手の事故、特に注目を浴びる事件事故があるたび、そのために祈るクリスチャンがいると思う。犠牲者や遺族の慰められるようにとか、正しいことが行われるようにとか。

 それはそれで良いことだと思う。けれど、中には「この事故には霊的には○○という意味がある」とか、いちいち「霊的」アピールをする輩がいて引く。それでどんなことを言い出すかというと、(たとえば)中国人の罪が蓄積した結果の爆発だとか、天津は歴史的にホニャララで呪われているんだとか、そういう根拠不明かつ証明不能なヨタ話である。

「祈っていたら主にそう示された」とか言うだろうけれど、言いがかりにも程がある。突然の大爆発で大勢が死ななければならないくらい中国人の罪が蓄積しているとしたら、近隣の北朝鮮とか韓国とか、日本とかロシアとか、東南アジアとか東ヨーロッパとかの「罪の蓄積」はどうなのだろうか。問題にならないのだろうか。

 たぶん彼らは旧約聖書のソドムとゴモラを例に挙げて、「罪深い街はさばかれる」みたいなことを言うであろう。けれど現代社会において中国の罪だけが殊更大きいとは言えない。それに「罪」に対する「罰」という考え方は旧約聖書のものであって、新約聖書の考え方は「罪」に対する「許し」である。だから罪が大きいから罰せられるとか、罪が小さいから免れるとか、そういう視点の話ではそもそもない。

 また「罰を与える」という視点にもう少し付き合うなら、ソドムとゴモラは「硫黄の火」が天から降ってきて滅ぼされたのであって、「天から罰せられた」ことがある意味明確である。そういう自然災害はないし、人為的にも不可能だからだ。つまり「罪が大きいから罰せられた」ことが誰の目にも明らかなやり方であって、だからこそ天の神様が畏れられる。
 けれど今回の天津の大爆発は単に事故であって、神からのメッセージとか罰とか、そういう明確なものはない。罰が罰としてちゃんと機能するためには、それが罰であることが受け手にとって明確でなければならない。だから今回のそれを罰と呼ぶのは無理がある。

 だからそういう「霊的意味」は手前勝手な解釈に過ぎない。自分にとって都合のいい理由、解釈を展開しているだけだ。中国を必要以上に嫌う人たちにとって、「中国の罪の蓄積の結果」という「霊的意味」は歓迎すべきものだろう。けれど中国国内の人間はきっとそうは言わない。たぶん「悪魔の攻撃だ」くらいに言う。そんなふうに人は立場によっていろいろ意見を変える。神の言葉は立場や場所や人種によって変わらないはずだから、それらが神からの「霊的な」語りかけであるはずがない。

 いろいろな立場や意見があるのはべつに悪いことではない。けれどあるひとつの見方、特に自分の見方を「神の意志」とするのは強引だ。神が言ってもいないことを言ったとするのは偽証である。それはやめた方がいいと私は思うけれど、たぶん彼らは聞く耳を持たない。

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