アンチでもなく、批判でもなく

2015年7月13日月曜日

ブログ 雑記

t f B! P L
■コメントについてお願い

 いつもコメントをいただき、本当にありがとうございます。

 コメントのページでも書いていますが、無用なトラブルを避けるため、コメントは承認制にしています。ですが、反対意見だから承認しないとか、気に入らないから承認しないとか、そういうことはありません。実績として、コメント者様本人が非公開を希望する場合を除いて、ほぼ全て承認させていただいています。 ちゃんと計算していませんが、9割9分9厘は承認していると思います。

 というわけで賛成反対含めていろいろなコメントを掲載させていただいていますが、それは単純に、いろいろな意見があっていいと思うからです。世界にはただ一つの正しいものがあるのでなく、いろいろな選択肢の中に正しさが含まれているからです。また「正しさ」の概念も視点を変えればいろいろ変わるわけで、唯一絶対の、これでなければならない、という選択肢はさほど多くはないでしょう(中にはそういう選択肢もあるでしょうが)。

 そういうふうに考えるのは、カルト化教会を通しての反省でもあります。 カルト化教会はあらゆる事柄において「これだけが正しい」「この選択肢以外に御心はない」「他は全て間違っている」と教えます。そしてあの手この手を使って、信徒を「ただ一つの道」に追いやっていくのです。それは多くの場合「教会献身」であり、「教会内時間無制限奉仕」であり、「牧師絶対主義」であります。

 しかし事実はその逆で、世界は多くの良いものと、数少ないダメなものとでできています。ちょうどエデンの園がそうだったように。
 だから世界にはいろいろな木があっていいし、いろいろな木の実があっていいのです。いろいろな形の花が咲いていていいのだし、色は赤でも黄色でも青でもいいのです。
 当ブログのコメント欄も、そうであってほしいと思います。

 というのが前置きで、ここから本題。

 コメントをいただけて本当に感謝なのですが、時々、
「○○なんてダメだ!」
「こんなのは××でけしからん!」
 みたいな、ちょっと激しい体育会系なノリのコメントをいただきます。
 この2年半、そういうコメントをほぼスルーして掲載してきました。それは一重に、コメント者様本人の素直な気持ち、正直な感情の表れをそのまま掲載すべきと思ったからです。またあるコメントは承認してあるコメントは承認しないとか、そういう情報統制みたいなこともしたくありませんでした。

 ただ個人的には、あまり関わりたくない種類のコメントでしたが。

 けれど最近、ちょっと事情が変わってきました。と言っても大した変化ではないのですが、「アンチ・キリスト教系のブログからここにたどり着きました」みたいなコメントが散見されるようになったのです。どうやら私のブログは、「アンチ・キリスト教系ブログ」に数えられている(?)のかもしれません。

「そりゃそうだろう、さんざん人の文句ばかり書いてるんだから」とかいうツッコミが入りそうですが、正直なところ、すごく心外です。私はキリスト教そのものを否定しようとは思いませんし、神もキリストも否定しようなんて思ったこともないからです。だた牧師や教会について「それって違うんじゃね」ということを書いているだけです(もしかしてそれがアンチの定義なのでしょうか? よくわかりません)。

 とにかくアンチというのは事実と違いますので、もしそういうイメージを持たれているのであれば、訂正したいと思います。基本姿勢を変えるつもりはありませんが、何か違うアプローチがあるのなら、少しずつでも変えていこうと思っています。
 同時に、上記の「○○なんてダメだ!」系の激しいコメントは、できたらご遠慮いただけたらと思っています。コメントをいただいている立場でこういうことを書くのも、本当に恐縮なのですが。

 ■アンチでもなく、批判でもなく

 また私のブログはよくこう言われます。
「人の文句ばっかじゃん」
「問題を挙げ連ねるだけで何の解決も提示してないよね」
「いったいどこに向かっているのかわからない」

 人の意見は様々なので、そういう意見があってもいいと思います。また事実を含んでいるとも思います。

 けれど、文章力・表現力の不足もあると思いますが、私は基本的に文句を言いたいのでなく、批判したいのでもありません。どちらかと言うと、カルト化教会の被害者や、そこまでいかなくてもそれに近い境遇にある人たちについて、書きたいと思っています。こういう被害がある、でもその被害は見えにくい、その理由は○○だ、みたいなことをいつも書いているつもりです。そしてその流れの中で、必然的にカルト化牧師やそれに近い牧師、問題の大きい教会についても触れることのなるのですが。

 物事にはいろいろな面があって、一概に良い・悪いを言うことはできません。善人に悪い面がないのでなく、悪人に良い面がないのではありません。すごい不良少年と思われていた子が案外優しい一面を持っている、なんてドラマの定番もあります(その逆もしかり)。それにだいたい、善人も悪人も見方次第で微妙に変わってくるものです。もっと言うと「善人」「悪人」という言葉さえも疑わしいです。

 たとえば「チャーチスクール」というのがあって、15年くらい前にちょっとしたムーブメントを起こしました。「教育界の革命」みたいなかなり言い過ぎなキャッチフレーズまで付けられて、キリスト教メディアに取り上げられました。それで一応の発展を見せたのですが、数年前からあちこちで問題が発覚し、もはやかつての勢いはありません(それでもたぶん現場レベルでは頑張ってらっしゃると思います)。
 今はチャーチスクールと言うと、「素人経営の怪しい宗教教育」というのが一般的な認識ではないかと思います。

  それでチャーチスクールは悪い悪いという話になるのですが、私個人はそこまで大きな声で悪いとも言えません。
 もちろん問題は沢山あって、無認可だとか、教師の大部分が無資格だとか、カリキュラムが定まっていない(つまりやりたい放題)だとか、卒業後の進路があやふやだとか、挙げればいろいろ出てきます。
 けれどそれでもチャーチスクールには一定の存在価値があると私は思っています。たとえば公教育になじめず、いじめの対象となり、親にも理解されず、もはや(精神的に)死んだも同然な子どもたちのセーフティーネットは、現在ほとんど整備されていません。そういう子がもしチャーチスクールと接点を持てたなら、少なくとも居場所にはなるでしょうし、社会とのつながりを保つことになるでしょう。受け入れられるほとんど唯一の場所かもしれません。その場合、そのチャーチスクールが(一般的に見て)どれだけ問題が多いとしても、その子にとっては唯一の救いとなるのです。

 もちろんそれがどうしてもチャーチスクールでなければダメだったかと言えば、そうではないと思います。民間のフリースクールなんかでも良かったかもしれませんが。

  とにかくそのように、「○○は完全に悪い」「滅び失せてしまえ」と断言できるような事柄は、それほど多くはないと思います。だから私が普段書いているのは、物事の中に含まれる悪い面・問題な面についてであり、それそのものを完全否定したいのではありません。なので「アンチ」とか「批判するだけ」とか言われるのは、私としては心外なわけです。

■解決策を提示しろ?

 最後になりますが、「批判だけでなく解決策も提示しなければダメだ」というコメントについて。
 批判と同時に解決策も挙げろ、というのは企業の会議なんかでよく言われる言葉です。けれどカルト化教会について言えば、簡単に解決できるなら初めから問題はないわけで、そんな単純な話ではないと思います。簡単な解決策があるなら、とっくに書いているでしょう。というか誰もカルト被害に遭わないでしょう。
 もっと言えば、その解決を私一人に求められても困るわけです。むしろ本ブログの記事を読んで下さった皆さんで考えるのが筋ではないでしょうか。
 だから「解決策も挙げろ」と言う人に対しては、こう答えましょう。「あなたには何のアイディアもないんですか?」

QooQ