「油事件」に対するクリスチャンの反応について

2015年6月11日木曜日

「霊の戦い」の問題

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 神社仏閣に不法侵入して「きよめの油」を撒いちゃったキリスト教団体幹部の事件について、私たちクリスチャンはどんな態度を取るべきか。

 あれは行き過ぎでしょ、というのがごく普通の態度だと思う。ほかにも同じクリスチャンと思われても困るとか、重大な教義的逸脱があるとか、まあ意見はいろいろありそうだ。

 その中で私が注目したいのは、同じように「霊の戦い」を強調し実践してきた人々がどんな態度を取るか、だ。自分たちの同類に対して彼らがどんな態度を示すのか、非常に興味深かった。

 けれど残念なことに、ほとんど何の反応もないのが現状だ。もちろん全ての教会の反応を網羅している訳ではないし、彼らが教会内で言っていることは確認しようがない。けれど少なくとも公式な発言は何も聞こえてこない。「霊の戦い」を実践している教会ほど、今回の件に関して「沈黙」を守っている。
 ではその「沈黙」は何を意味するのだろうか。

 沖縄の某自称クリスチャンは「霊の戦い」の実践者として有名(?)だけれど、こんなことを言っている。
この件に関しては聖霊様から沈黙するよう言われています
 まあ自分も同じようなことをしてきたのだから、当然ながら慎重になるのであろう。下手に発言して問題になっても面白くないだろうし。

 しかしこのケースの場合、「沈黙」はほとんど「支持」と同じ意味になる。間違っていることを間違っていると言わないのは、中立にはならない。たぶん「霊の戦い」はキリスト教界で是か非かはっきり分かれる問題だろうし、そこに中立という立場は存在しないだろう。肯定か否定か、どちらかしかない。

 たとえばイジメの現場を見て見ぬフリをする人は、「自分には関係ない」と中立的立場に立っているつもりだろうけれど、イジメられている人からしたら敵でしかない。助けてくれる人、後からでも何かのフォローをしてくれる人だけが味方なのだ。

 だから今回の事件に関して「沈黙を守ります」と言うのは、その犯行を暗に支持しているのと同じことになる。自分たちだって同じようなことをしてきたし、これからもするからだ。けれど不法侵入とか器物損壊といった犯罪行為を公に肯定する訳にもいかないから、沈黙する他ない。彼らとしては気まずい状況である。

 気まずい時にどうするかというと、責任転嫁である。「神様がそう言った」「神様が〇〇しろと言った」からそうしたのであって、自分はあくまでそれに従っただけ、という「従順なる僕」を気取る。全部神様のせいにして、自分は何も悪くないのである。

 正直なところ、彼らにとって問題なのは油を撒いたことではない。むしろそれは当然すべき使命でさえある。問題なのは犯人が不法侵入とか器物損壊とかで逮捕騒ぎになったことだけだ。彼らにとって神社仏閣が「敵」であるのは、今もこれからも変わらない。夜な夜な神社仏閣に向かって罵声を浴びせ続けるのも、変わらない。

 彼らは多分「あんなふうに報道に取り上げられるのは困る」くらいにしか思っていない。「もっとうまくやるべきだ」「もっと賢い方法ですべきだ」というのが正直な感想だろう。

 つまり、犯人とその犯行を基本的に「支持」している。だからこその「沈黙」なのだ。

 先の某自称クリスチャンの談に戻ると、
同じクリスチャンとして悔い改めます
同じクリスチャンとして裁くことはしません
 みたいなことを言っている。

 けれどあなたが悔い改めても、犯人が悔い改めないと意味がない。たとえあなたが土下座して謝っても、神社仏閣側からしたら「あんた誰」である。

 また聖書をちょっと読んでみれば、クリスチャンがクリスチャンを裁くのは至極当然だとわかる(コリント第一)。偽物を見抜くようにとも書いてある(黙示録)。
 ということは教会とかクリスチャンの集まりにはどうしても偽物が紛れ込む訳で、それはある程度避けられない。だからこそ間違った教えを吹き込む輩をちゃんと見つけ出して、然るべき対処をするのも教会の重要な役目だ。

 だから彼らは「人を裁くな」の意味を履き違えている。自分たちに追求が及ぶのを恐れている。だからこそ今「沈黙」している。不利な状況が過ぎ去るまで、じっと身を潜めている。
 でもそれってズルいことでしょ。と私は思う。

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