「寛容さ」と「不寛容さ」について考えさせられた、という話

2015年5月25日月曜日

私事

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 少し前に個人的にいただいた意見に、「いつも他人の文句ばっかりですね」というのがある。

 私は当ブログで、昨今のクリスチャンや教会や牧師(主に牧師だけど)の問題点を指摘してばかりいるから、まあ「いつも他人の文句」と映るのかもしれない。
 頷けるところもある。けれど、なかなか心外であった。

 でもおそらくそういう意見の人は、昨今のカルト化教会の実態を知らないんじゃないかと思う。たぶん幸せな教会生活を送っているだろうから、信仰や聖書や神の名がいいように利用されている現状を知らないのだと思う。でないとそういう意見にならない気がする。

 カルト化教会やカルト化牧師が信徒に与えるダメージは計り知れない。人生を台無しにされてしまう人も大勢いる。結果的に信仰を捨ててしまう人も大勢いる。
 そういう危険性に対して警鐘を鳴らすのは、むしろ絶対的に必要だと私は思う。だから「いつも文句ばかり」と言われたところで、やめる訳にはいかない。

 まだ成熟できていない私は、その意見にちょっと皮肉っぽく答えてしまった。けれど、べつにそういう意見があっても構わないと思っている。だから無視しようとか、ブロックしようとか、反撃しようとか、そういう選択はしなかった。けれど先方が私を一方的に「ニセモノ」扱いして、ブロックしたようである。

 正直残念だった。もう少し対話姿勢だあってもいいんじゃないかなと思う。自分を義と堅く認め、他者(私)を不義と一方的に決めつけるのはどうなのだろうか。キリスト教的に言うとその姿勢は「不寛容」なのではないだろうか。
 まあもう遅いのだけれど。

 当然ながら、私は自分が正しいとは思っていない。もちろん正しくありたいとは思っている。ただ自分がどんな点でも正しいとは言えない。正しくないところが沢山あるし、たぶん自分で気づいていない不義も沢山ある。だから自分の正当性など主張できない。

 けれどそれは皆が皆同じ訳で、クリスチャン、ノンクリスチャン問わず誰も自分が絶対的に正しいとは言えないはずだ。

「十字架で罪を赦されたのだから、私に罪はない」と言う人がいて、それは根本的に間違っていない。けれど、単に罪を赦されただけであって、根本的に罪人であるのは変わらない。私たちはいつまた罪を犯してしまうかわからないし、未来永劫罪を犯さないなどあり得ない。

 その意味で、自分を義とし他者を不義とする姿勢はあまり感心できないと私は思う。皆それぞれ不義な部分がある。「他者を自分より優れたものと思え」とも聖書は言っている。
 そういうことを考えるなら、「寛容さ」はクリスチャンにとってなかなか重要な性質ではないかと思う。

 さてその視点でキリスト教界を見てみると、「寛容さ」と「不寛容さ」、どちらが多いだろうか。大変興味深い。誰か調べてくれないだろうか。

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