信仰っていう名のイジメ。あるいは聖書の意図的誤解釈。

2015年5月15日金曜日

教会生活あれこれ

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 カルト的教会では今日も信徒の虐待が行われている。

 虐待の程度も種類も様々である。わかりやすい暴力もあれば言葉の暴力もあり、セクハラ、パワハラ的なものもある。過剰な奉仕で心身ともに疲弊させるというのもある。教会によって様々だ。
 
 なぜ、そんな虐待がまかり通るのか。
 多くの場合、それは「信仰」とか「試練」とかと思い込まされている。耐えるのが美徳であり、神に喜ばれることとされている。だから信じる人はひたすら虐待に耐え続けることになる。非常に理不尽。そこでは「信じる者は救われない」。
 
 その理不尽を正当化するため、そして補強するため、聖書の言葉が使われている。カルト的教会での聖書の立ち位置はそんなものだ。
 むろん聖書が虐待を支持しているのではない。カルト的牧師が聖書の言葉を意図的に誤解釈し、都合のいいように意味付けて、信徒に突きつけているだけ。
 
 今回はそのように意図的に解釈を曲げられた聖書の言葉を、いくつか挙げてみたい。
 
・耐えられない試練は与えられない
 
 第一コリント10章13節。(主に誘惑を試練と表現していて)耐えられない試練は与えられない、すべての試練には逃れる道が用意されている、というのはクリスチャンにとって励ましだろう。けれどカルト的教会ではこう言い換えられる。
 
「だから今ある試練(多くは牧師が課したもの)も乗り越えられます」
「乗り越えられないのはあなたの信仰の問題です」
「だからしっかり信仰に立ってこの試練(くどいけど牧師が課したもの。あくまで)を乗り越えなさい」
 
 つまり牧師が課したミッションを遂行させるため、信徒を焚きつけるために利用されているに過ぎない。その証拠に、神様は「脱出の道を用意しておられる」けれど、牧師は決して信徒を逃がさない。脱出させない。その方が「耐えられない試練」じゃないですか?
 
・疑う者は何も得られない
 
 ヤコブの手紙1章6~7節。少しでも疑う人は主から何もいただけない、という話。
 カルト的教会では「だから100%信じなさい」「決して疑ってはいけません」という話になる。それで牧師の要望・願望・野望が100%受け入れられていく。
 牧師としてはさぞ気分がいいでしょうよ。信徒が何でも自分の言う通りに動いてくれるんだから。
 
・神様は祝福を用意しておられる
 
 上記につながるけれど、試練や困難、苦しみを乗り越えた後にはすごい祝福が待っている、という話。聖書箇所は沢山あるけれど、たとえば詩篇23篇の「敵の前でも食事を整えて下さる」みたいな箇所を取り上げて、「さあこの試練を乗り越えれば・・・」とエサをちらつかせる。
 でも実際にはいくら乗り越えても乗り越えても、次なる試練が待っているだけ。
 
 ある教会の会計係が、牧師から一方的に突き付けられる費用請求に毎月泣かされていた。
「今月はこれこれの必要があるから」
「これだけはどうしても必要で」
「この集会は主が願っておられることだから」
 みたいなことをいつも言われて、会計係は(そんな責任ないのに)いつもお金のやり繰りに苦労していた。時には自分で献金して穴埋めしていたようである。
 その会計係が度々言われたのがこれ。
「今の困難な時期を乗り越えれば、主の大いなる祝福が注がれる。そのためにも今はこの試練を通る必要があるのです」
 
 けれど乗り越えても乗り越えても出費は多くなる一方だった。最終的にその教会会計は破綻したのだけれど(←牧師バカでしょ)、哀れなのは会計係。最後の最後まで「きっと主の祝福が・・・」と夢を見させられていた。目の前にニンジンをぶら下げられた馬みたいに。

・キリストの弟子に休む暇などない

 たとえばマルコの福音書6章を引用し、キリストの弟子たちがどれだけ忙しかったかを取り上げる。それで、「あなたも弟子でしょ? だったら休む暇なんてあるわけないでしょ」という話になる。

 ある教会に外国人宣教師がきて、英語でメッセージした。通訳はそこのカルト的牧師。宣教師が「ちゃんと休むことも必要です」みたいなことを言うと、牧師はこんなふうに通訳した。
「休むことも必要って言ってますけど、まあこれは欧米文化での話ですね。日本人には当てはまりません」
 おいおい、ちゃんと通訳しろよ。

 以上、意図的に誤解釈され利用される聖書箇所を挙げてみた。まだまだ他にもあると思うけれど。こういうことを言う牧師にはご用心。

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