牧師に人生を乗っ取られる前に知っておいてほしいこと・その2

2015年5月2日土曜日

「弟子訓練」の問題

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「弟子訓練」という言葉、私は嫌いである。

 その構造上の問題点は今まで散々書いてきたけれど、そういう論理的な話を抜きにしても嫌いである。「訓練」とか「厳しく指導」とか「忍耐して受ける」とか「絶対服従」とか、なんで週末の休みの日にまでそんな苦労しなきゃいけないんですか? 週日だって仕事があって大変なんですけど? とか今は思う。自分の実体験を踏まえてみても、やはり「嫌い」という結論は変わらない。

 弟子訓練の弊害について沢山書いてきたけれど、今まで書かなかった視点で言うと、「生涯牧師にお世話してもらわなければならない関係」というのがある。

「弟子訓練ですごく成長した」とかいう話はよく聞く。それが教会の中でしかできなかった成長なのか、あるいは一般社会の方がもっと成長できたのか、そもそもそれが本当に成長なのか、みたいな疑問がまずある。けれどそういう疑問を抜きにしても、
「牧師がいつも上」「自分はいつも下」
「牧師は何でもわかっている」「自分は牧師ほどにはわかっていない」
「牧師が何でも指導」「自分はただ従うのみ」
 という関係がずっとずっと続いていくと考えただけでも、それがおかしいとわかる。

 そこには信徒の「自立」はない。「自立」という言葉がチラついても、幻でしかない。いい年して先輩牧師の言いなりみたいな牧師もいる。彼らには自分の意見がない。すべては牧師のお気に召すまま、だ。

「弟子訓練」牧師にとって、「キリスト教道」は一本道である。選択肢は一切ない。全員一つの道を駆けていく。だからその一本道に先に入った方は永遠に先輩である。そしてただ一つしか道がないから、後輩が道から反れるとすぐわかる。すごくシンプルな話だ。

 けれど人生はさほどシンプルでなく、道は一つでない。様々な価値観や責任や、どうにもならない状況によっていろいろな選択がされていく。キリスト教にしたって、「キリスト教道」みたいな一本道があるのではない。様々な教派に分かれているのを見るだけでもそれがわかる。

 人には自由意思と自由選択の権利があるのだから、そんな理不尽な一本道に従う必要などない。もちろん従うのも権利だ。しかしその先に待っているのは「牧師に乗っ取られた人生」でしかない。先日書いたGさんみたいに土地や家を奪われたりはしないかもしれないけれど、人生そのものが奪われてしまう。そして生涯「君はまだ幼いな」「まだわかってないな」みたいなことを言われ続ける。

 人間幼かろうがわかっていなかろうが、自分の足で人生を進めていくべきだと私は思う。もちろん教えてもらう必要もある。けれど教えてもらうのと、依存するのは違う。そして「弟子訓練」がもたらすのは、牧師に対する際限ない「依存」である。

「弟子訓練」の教会はそういうことを決して教えないので、ここに書いておく。

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