キリスト教的「ソーシャルメディア断食」に思うこと

2015年4月8日水曜日

教育

t f B! P L
「ソーシャルメディア断食」を推奨するキリスト教団体がある。

 ツィッターとかフェイスブックとかラインとかの各種SNSを一定期間使わないようにして、それらに対する依存から抜け出す、みたいな趣旨だ。実践した若者たちから「とっても良かった」「すっごい恵まれた」みたいな感想が寄せられている。

 SNS依存は一般的にも問題視されていることだし、若年層については特に注意が呼びかけられている。だからこれはクリスチャン子弟に限った問題でないし、基本的には良いことだと私は思う。
 SNSに限らず、夢中になっていることを一定期間やめてみると、イロイロ気づくことがあると思うからだ。
 たとえば以前も書いたけれど、携帯電話を1日持たなかっただけで私はずいぶん自由を感じることができた。何にも縛られていないと思えた(逆に言うと、いつも縛られているということでもある)。

 ソーシャルメディアの問題点は、承認欲求を増幅させ、あるいは仲間外れに対する恐怖心を煽るところにある。バーチャルな関係への妄想的依存もあるだろう。
 たとえばフェイスブックなんか見てみると、大半の書き込みは「リア充自慢」みたいな気がする。クリスチャンの場合だとそこに信仰自慢、試練自慢、栄光自慢みたいなものが絡んでくるから余計にウザい。私はそういうのに疲れてしまって、もう何年も前にアカウントを削除した。

 べつにそういう自慢が悪いという話でもないけれど、必要とも思えない。
「いいね」を沢山もらうと、次はもっと沢山の「いいね」をもらわなければ気が済まなくなる。「いいね」が付かないと、不安になる。べつに「いいね」とも思わないけれど、義理で誰かの書き込みに「いいね」する。

 そういうあまり意味のないスパイラルに気づけるとしたら、SNS断食も有効だと思う。
 けれどそれはキリスト教とか宗教とかと直接関係ない。教育とか精神衛生とかの分野である。なにもキリスト教団体だからと言って、必ずしなければならないことではない。

 そのキリスト教団体が「ソーシャルメディア断食」を勧める理由の一つに、いわゆる「誘惑を避ける」というのがある。明言していないけれど、ネットポルノの類を避けるとか、そういうことだ。
 現に実践者の感想に、「見てはいけないとわかりつつ見てしまうHPがあって、思い切ってスマホを捨てた」みたいなのがある。そういうのがSNS断食とは関係ないのに大々的に掲載されているのだから、やはり狙いはSNSだけではない。

 しかしそうなると話は変わってくる。それはSNS断食と言うよりメディア断食だからだ。そして根本的には過剰断食である。
 つまり誘惑を受けそうだからテレビは見ない、映画は見ない、雑誌は見ない、本は見ない、ネットは見ない、ということで、世界から遮断されていく。それを自由と彼らは言うけれど、まったく逆だ。窮屈な部屋に自分自身を追い込むことになる。

 もちろん誘惑は避けるべきだし、そのための工夫も必要であろう。けれど「全部禁止」を押し付けられ、それこそが信仰だと勘違いするのも違う。

 たとえば徹底的なポルノ断食をして「誘惑を退けた」と言ってた人が、何年後かに残念なことになる、みたいな話はよく聞く。それは単にガマンしていただけで(あるいは意識の外に追い出していただけで)、根本的に何一つ変わっていないことを示している。
 なのにそういうのを見ないようにして、「メディア断食したおかげで自分は聖化された」とか言うのは浅はかだ。仮想パーティーと同じで、表面を取り繕っているに過ぎないのだから。一時的に。

 一時的な「ソーシャルメディア断食」は、人によっては良い効果をもたらすかもしれない。けれどそれを悪として敵対視するとか、メディア全体を禁止するとか、そういうのはクリスチャンとして痛々しいこと限りない。それは聖書的「聖化」を目指すというより、なにか特別な存在になろう、優越な立場に立とう、とする野望でしかならない。

 これだけSNSが普及し、コミュニケーションツールとして日常化している時代にあっては、それに順応した方が早い。あえて使う必要もないけれど、使ってみれば案外便利なものである。それくらい自由に考えた方が、クリスチャンとして自由でないかと私は思う。

QooQ