踏み絵を踏んだら失格、って単純すぎるでしょ

2015年4月4日土曜日

教会生活あれこれ

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 神様を「真剣に」信じる。というのは良いことだろうし、クリスチャンなら当然のこととも言える。けれど聖霊派教会なんかだと、その「真剣さ」がちょっと行き過ぎている。
 たとえば「この世と分離しなければならない」ということでマスメディアに一切触れないようにするとか、クリスチャンとしか付き合わないとか、地域の神社仏閣を敵視するとか、そういう極端な感じ。
 
 礼拝も祈りも奉仕も一生懸命、決して妥協しない、というのは字面的には美徳っぽい。けれど実際のところは窮屈である。どれだけ祈ったか、どれだけ奉仕したか、どれだけ断食したか、みたいな基準で「霊的」評価がなされるからだ。
 しかもその基準は一定でないし、公平でない。上手に祈れる人、何かが得意な人、見栄えのいい人、牧師に気に入られている人なんかは高評価を得やすい。
 
 だからその「真剣さ」というのはクリスチャンをどんどん独りよがりにさせるし、窮屈にさせる。結果、本人は「すっごい霊的」と自身を評価しているのだけれど、第三者からしたらただの「変人」でしかない、みたいなことになる。自分の話したいことを話すだけで、全然対話にならない、という「霊的」クリスチャンはけっこう多い。
 
 またその「真剣さ」は、他のクリスチャンを裁くことにもつながる。
 たとえば禁教時代の「踏み絵」を取り上げて、
 
「踏まないで殉教した者たちこそ真のキリスト者」
「踏んだ連中は失格」
 
 みたいなことを平気で言う。そして自分たちは当然前者だ、と根拠なく自負している。
 
 殉教は信仰の表明として最高の形かもしれない。殉教がらみの美談は時代も地域も越えて沢山ある。「死に至るまで忠実であれ」と聖書も言っている(←ちなみにこれ、洗礼式でよく言われる台詞)。
 だから実際に殉教された方々を、私たちは尊敬すべきだと思う。
 
 けれど、「踏み絵を踏んだ連中は失格」と言うのは、殉教の強制だ。ダニエルと3人の友人たちの話を持ち出して、「ほら、彼らは死んでも金の像を拝まないと決心したから祝福を得た。あなたも信仰を選びなさい」みたいな話をする。そう言われた方は、殉教を選ぶ他ない。「真剣」であればあるほど。
 
 けれど話はそんなに単純ではない。
 踏み絵を踏んだ、いわゆる潜伏キリシタンや転びキリシタンの尽力があって信仰が後世に伝えられたのだから、「踏み絵を踏む=失格」という簡単な図式は成り立たない。むしろ彼らにこそ私たちは感謝すべきではないかと思う。
 
 踏み絵を踏んだ人たちのことを考えてみる。
 たぶん喜んで踏んだのではないと思う。むしろ辛く、苦しく、すごく葛藤した上でやむなく踏んだのではないだろうか。そこには「信仰か不信仰か」の単純な話だけでなく、家族のこととか、友人や恋人のこととか、年老いた親や幼い子供のこととか、そういう複雑な事情があったに違いない。それに加えて踏み絵を踏むという罪責感や惨めさもあって、きっとひどく絶望したんだと思う。
 
 たぶん後世の人間が「彼らは失格者だ」と断ずる以前に、彼らが自ら「失格者」だと断じていたんだと思う。
 
 しかし聖書を読むと、ペテロの大失敗をはじめとする多くの「信仰的失敗」を目にする。模範的「殉教」はすごく少ない。
「失敗してももう一度やり直せる」というのがキリスト教教理の一つだと私は信じているのだけれど、間違っているだろうか。悔い改めるチャンスがないとしたら、いったいどこに救いがあるのだろうか。また誰が救われるのだろうか。
 
 だから「踏み絵を踏んだ連中は失格」と平気で言う教会には要注意だ。あなたもいつか「失格」の烙印を押されるかもしれない。あるいは強制的に殉教させられることになる。でも実は、どちらも信仰とは関係ない。

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