その残念な伝道集会が失敗した理由

2015年4月26日日曜日

体験談から

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 以前の記事「そんなのキリスト教の礼拝と呼ぶな、という話」がいつの間にか他サイトで紹介されていて、最近になって知った。というか教えてもらった。
 
 当該記事に紹介していただくほどの価値があったかどうかわからないけれど、まあ「礼拝モドキ」で盛り上がっている人たちを晒すという意味では良かったのかもしれない。
 もっとも晒されたくらいで動じる人たちではないけれど。
 
 その紹介記事はこちら。興味のある方はどうぞ。
 
 というのは前置きで、ここから本題。
 この「礼拝モドキ」関連の体験談が寄せられたので、ここに簡単に紹介させていただく。
 
 2014年5月、某所で未信者向けの伝道集会が開かれた。テレビでも宣伝されて、なかなか大規模だったようである。こういう集会にお決まりの、歌とか劇とか踊りとかが満載だった。それなりに楽しめたようである。
 
 しかし集会の最後、外国人牧師が講壇に上がり、「招き」をしてしまった。お約束の台詞「この神の愛に感動した人は・・・」で、大群衆が講壇前に集まるかと思ったらしい。けれど5分たっても10分たっても数名のサクラしか集まらない。それでも再三促したその根性(というか厚顔?)はすごいと思う。けれど残念ながらそこで終了。集会は大いに盛り下がったまま幕を下ろした。
 
 ちょっと解説しておくと、「招き」は諸刃の剣である。感動した人が大勢いれば沢山集まって盛り上がるけれど、集まらないとこんな悲劇はない。「主の下に来なさい!」とかカッコよく言ったのに、シーンと静まり返ってしまう。経験の浅い牧師ならそこで心がポッキリ折れてしまうかもしれない。
 
 だから「招き」をするのは、ある程度の人数が集まると踏める時に限る。
 あるいははじめから、誰も来なくても差し支えないように運ぶべきだ。「はい、今日は応じる人がいないようなので次に進みましょう」みたいな。
(以上、「招き」をする教会へのアドバイス。あつかましくて失礼)
 
 それは置いておいて、上記の集会が失敗した理由は至ってシンプルだ。未信者だらけの伝道集会で「招き」なんてするのがいけないのだ。
 
「招き」が盛り上がるのは、クリスチャンだらけの教会内だけである。しかも「招き」に慣れている信徒群でないと厳しい。
 人間、「前に来なさい」と言われてそうそう出られるものではない。羞恥心や躊躇がどうしても働くからだ。
 まして相手は未信者なのだから、キリスト教のなんたるかを知らないし、教会のそういう習慣なんて知らない。それで前に出てくるのはよっぽどの物好きだ。まずいないだろう。
 
 たぶん主催側は、お金をかけたし、いろいろ盛り沢山でやったんだから、きっと皆感動するはずだ、招けば大勢応じるはずだ、と目論んだのだろう。
 けれどエンターテイメント性で言えば全然高くないし、カリスマ的に魅了する要素なんて皆無なことに気づいていない。集会を開いたという意味では大衆に奉仕したけれど、だからと言って大衆に受け入れられ求められるのではない、ということがわかっていない。
 
 いろいろなエンターテイメントが流行り廃り、毎年一発芸人が現れては消えていくショービズ界を見れるまでもなく、大衆を魅了するのは本当に大変なことだ。やれば必ず人気が出るなんてことは絶対にない。まず人様に見ていただくだけでもハードルは相当高いのである。
 
 だから上記の集会で言えば、お金をかけたのもいろいろ盛り沢山でやったのも当然のことであって、特別褒められることではない。その結果大衆を感動させられるかどうかも全くの別問題だ。そして感動させられなかったからといって、誰に文句を言うこともできない。単に自分たちにその力がなかったというだけのことだ。
 
 その辺を勘違いしてしまうから、上記のような閑古鳥が鳴く残念な「招き」の現場になってしまう。神の名を出せば、感動させれば、キリスト教を前面に押し出せば、あるいはクリスチャンである自分たちが一生懸命頑張れば、大衆はなびくだろうと安易に考えている。それが昨今のクリスチャンや教会に見られる「甘さ」だと私は思うのである。

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