「模範的なクリスチャン」は本当に模範的なのか、という話

2015年3月31日火曜日

教会生活あれこれ

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 いわゆる「模範的なクリスチャン」がいる。
 狂信的とか原理主義的とかいう意味ではない。マジメで、努力家で、ここで書いているような痛々しさがなく、割と常識的で、聖書が示すような愛と憐れみに満ちている、というような意味だ。

 彼らは非の打ちどころのない、パーフェクトなクリスチャンに見える。礼拝では神様を熱く賛美し、メッセージは熱心に「アーメン」しながらメモる。会堂掃除や椅子ならべ、トイレ掃除や洗い物といった裏方奉仕にも熱心かつ忠実。誰に対しても優しく、公平で、喜んで犠牲を払う。悩む人の話を聞き、泣く人と一緒に泣き、笑う人と一緒に笑う。

 そんなふうに聖書を地で行くような「いい人クリスチャン」は、どの教会にも一定数いるような気がする。私が知っている教会にもいた。彼を仮にFと呼ぶ。

 Fは上記の描写通りの人物で、誰が見ても「まさに現代の聖人・・・」と思わせる人だった。頼まれたことは何でもやるし、遅くまで黙々と働き続ける。誰に対しても愛想よく、腰が低く、丁寧。聖書知識も沢山ある。立派な祈りをし、礼拝の司会をソツなくこなし、賛美を歌うのも上手。近隣住民にも丁寧に挨拶するから好感を持たれている。悪い評判などまったくない。
 まさに「模範的」であった。

 そんなFだから当然皆から信頼され、責任の重い奉仕を次々と任された。そしてある時牧師の肩書を得て、いわゆる「協力牧師」みたいな立場になった。

 しかしFのアレッという姿が見えだしたのは、その頃からだった。

 たとえば「バイブルスタディ」の時間があって、Fが講師を務める。はじめに祈るかとか机の配置をどうするかとか、どういう時間配分にするかとか休憩を入れるかとか、そういう細々したことは、講師に委ねられるのが普通である。
 それでFがいろいろコーディネートするのだけれど、そこへたまたま主任牧師が通りがかる。主任牧師はしばらく様子を見てから、机の配置がどうとか雰囲気がどうとか、こうじゃなくてああすべきだとか、そういう訂正を加えてくる。するとFは二つ返事で、言われた通りに全部変えるのである。

「バイブルスタディ」における机の配置とか雰囲気とかに黄金則があるのかどうか知らないし、べつに主任牧師の好む配置だって何だっていいと思うけれど、そのFの「言いなり」感には違和感を覚えた。

 そしてその「言いなり」が一度気になると、そういう場面がやけに目についてくる。

 たとえば礼拝の司会をFがしていて、「今は日本の祝福の季節です」とか信仰っぽく言う。会衆から「アーメン」と声がかかる。けれど前列にいる主任牧師が「日本じゃなくて世界だろ」とかボソッと言うと、Fはすかさず訂正する。「あ、いえ・・・、日本というより、むしろ世界の祝福です!」

 主任牧師に従うのは当然でしょ、とか言われそうだけれど、ちょっとそういうレベルを逸脱しているように思う。従順というより、文字通り「言いなり」なのだから。

 まあしかしそういうのも含めて、Fはやっぱり「模範的」なのである。牧師に従順、奉仕に忠実、実務力もある、という訳で、教会内での立場はもうカタイのであった。
 そのまま行けばFはある意味幸せだったかもしれない。けれどその「言いなり」姿勢が問題となる出来事が起きた。

 あるとき主任牧師が大問題を起こした。教会としては裏切られた形である。問題をウヤムヤにしようとする主任牧師に対して、教会は対決を余儀なくされた。そこで教会の代表として選ばれたのが、Fであった。「模範的な」Fのことだから、きっと聖書的に正しいと思われる処理をするはずだ、と誰もが期待した。F自身も自分が適任だと認めた。
 けれど(詳しくは書かないけれど)結局のところ、Fは主任牧師に言いくるめられてしまった。そしてあろうことか、逆に教会を責める立場に回った。そのものすごい変わり身に、呆れたのなんのって。

 Fは確かに模範的なクリスチャンだったし、その普段の様子には何一つ責められる点がなかったけれど、いかんせん自分の頭でよく考えてみるという点が欠落していた。あるいは自分より権威ある者の顔色をうかがうばかりで、「これ」と信じる道を選ぶことができなかった。

 だからその行動や姿勢が模範的かどうかはもちろん大切だけれど、それだけでは測れない、人として大切な姿勢があるんだと思う。つまりクリスチャンとして模範的な人が、人間として模範的なわけではない。
 
 そしてその大切な姿勢というのは、たとえば奉仕をあからさまに嫌がるとか、教会の都合より自分の都合を優先するとか、そういうことが自然にできる人たちからこそ学べるような気がする。

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