奉仕は「適材適所」なのか「何でもやるべき」なのか、と悲しく考えさせられた瞬間

2015年3月3日火曜日

教会生活あれこれ

t f B! P L
 ある教会のある姉妹。仮にBと呼ぶ。B姉妹は料理やお菓子作りが好きで、教会でも調理分野で仕えてきた。信仰熱心でもあり、礼拝以外の集会とかイベントとかにもよく参加しては、得意の料理やお菓子を(たぶん自前で)作ってきてくれていた。だから料理と言えばB姉妹、みたいなイメージが出来あがっていた。

 その教会が飲食業を始めた時、当然ながらB姉妹もそのスタッフの中にいた。そしてメニューの考案から厨房の管理から店内の装飾から、ほとんど彼女が関わっていた。それも強いられてでなく、自ら進んでしていた。B姉妹はどちらかと言うと地味で目立たないタイプだったけれど、神様に仕えたいという情熱は人一倍強かったのである。

 さて、その教会は良く言えば「活発」、正直に言えば「奉仕過多」なところだった。牧師が次々と「神に語られた」と言ってイベントを企画するものだから、信徒は休む暇がない。なんでこんなに忙しいんだろうと誰もが違和感を覚えながらも、神様が語るのだから仕方がないと誰もが諦めている、そんな教会であった。

 そしてある時、子供向けの大規模なイベントが企画された。一般の子供たちが多く集まるところで、いわゆる「クリスチャン祭」(?)みたいなことをしようという試みだった。フランクフルトとか焼きソバとかの屋台を出し、輪投げとか射的とかのゲーム広場を作り、将棋コーナーとか工作コーナーとかの小ブースをいくつか設け、定時になるとビンゴ大会とか演劇ショーとかを披露する、要するに縁日の出店の集合体みたいなものだった。

 それがキリスト教信仰とどう関係あるのかよくわからないけれど、奉仕者はみんな若者で、子供たちも割と集まって、それなりに楽しくて盛り上がった。

 そのイベントでもB姉妹は大活躍で、彼女は当然ながら屋台を担当した。食材や機材の調達やら調理やら販売やら(私は詳しくわからないけれど)、そういった諸々を一手に引き受けていたと思う。

 そこの牧師いわく、奉仕は「適材適所」が肝心で、個々の信徒の得手不得手を考慮して担当させるのが一番だとのこと。だからB姉妹は屋台担当になった訳で、それ自体は何ら問題ない。

 ところでその「クリスチャン祭」はそこそこの盛り上がりを見せ、定期的に開かれるようになった。けれど(よせばいいのに)他のイベントも同時進行で行うから、どうしても人手不足になる。「クリスチャン祭」に割ける人手も限られてくる。それでどうなるかと言うと、一人二役、いや三役四役である。

 それである時、「クリスチャン祭」の演劇ショーに出演する姉妹が、べつの奉仕に駆り出された。その穴は誰かが埋めなければならない。そこで白羽の矢が立ったのが、なんと屋台担当のB姉妹であった。
 牧師「Bちゃん、急だけど、演劇ショーのあの役、やってくんない? できるよね?」
 B姉妹「え・・・。それはちょっと・・・」(長い沈黙)
 牧師「なに、恥ずかしいとか思ってんの? みんな恥ずかしいのを我慢してやってんだよ? それくらい神様の為にできないわけ?
 B姉妹「でも・・・」
 牧師「なんだよそれ。神様の為なら何でもするのが信仰だろうが・・・。まったく・・・」(と不機嫌そうに溜息。あれ、でも得手不得手を考慮するんじゃなかったっけ?)

 いつも献身的でほとんどNoと言わないB姉妹が、はじめて見せた抵抗だった。それだけ演劇ショーの参加がイヤだったのだろう。気持ちはよくわかる。というか当然の反応である。たとえるなら小学校のクラスで一番おとなしい女の子が、学芸会でやる『シンデレラ』の主役に抜擢(というか強要)されたようなものだ。無理があるにも程がある。

 という訳でその時は精一杯の意思表示をして拒否したB姉妹だったけれど、結局「神様の為に」という言葉に逆らえなかったらしい。嫌々だったと思うけれど、あとから演劇ショーの奉仕を引き受けた。

 そして演劇ショーが始まり、恥じらいながらも精一杯演じようとするB姉妹。そんな事情なんか知らねーということでヤジを飛ばす子供たち。事情を知っていて直視できない私を含む何人か。そしてショーが予定通りできたからと満足する牧師。

 奉仕は適材適所かと思いきや、どんなにイヤでも神の為ならやらねばならない? てゆうかこれって本当に神様の為? そんな疑問がグルグル回る、「クリスチャン祭」の一コマであった。

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