牧師の恐るべき自作自演と、その被害に遭う信徒の悲哀

2015年3月10日火曜日

教会生活あれこれ

t f B! P L
 とある教会が福祉系の事業に着手した。
 詳細は書かないけれど壮大な構想を持っていた。当然ながら実現には多額のお金が必要である。けれどうまいツテがあって、出資してくれそうな海外企業に話を通してもらえた。
 あとはその企業との直接交渉のみとなり、なんとなく、「これイケるんじゃね?」みたいな雰囲気になった。

 ところでその教会に、年輩の男性信徒がいた。彼をCと呼ぶ。C兄弟はその福祉系事業に人並みならぬ情熱を持っていて、実現させる為なら何でもしそうな勢いであった。だから出資してくれそうな企業の話が出た時はたいそう喜んだ。

 で、その海外企業の代表者が来日し、交渉の日となった。
 メインのプレゼンは牧師がし、合間の接待はこのC兄弟がした。彼がどんな接待をしたのか知らないけれど、「良い関係を築けました」という彼の言葉から判断する限り、成功したようであった。

 これを聞いて、教会は大盛り上がりである。結果を見ぬうちから「これは実現できそうだ」とか「これを足掛かりにしてこの事業もあの事業も始めよう」とか、いわゆる「捕らぬ狸の皮算用」に走る始末。

 しかし結果はなかなか届かなかった。相手が海外だからというのも関係したかもしれない。けれど1ヶ月が過ぎ、2ヶ月が過ぎ、さすがに遅いのではないかと誰もが思った。唯一の連絡窓口である牧師も、「まだ返事がない」「大企業とはいえ大金を動かすのは時間がかかるのだろう」とか言っていた。

 しかしさらに3ヶ月、4か月と過ぎた。その間にギリシャの金融危機が深刻化し、ヨーロッパ全体に影響が広まる事態となった。牧師いわく、「この金融危機のせいで相手企業もお金を動かせなくなっている。これは回復を待つ以外にない」とのこと。

 冷静になって考えてみれば、出資するかしないかの判断に3ヶ月も4か月もかかる訳がない。それに大金と言っても零細教会にとって大金なだけで、多国籍企業からしたらそうではない。仮にお金を動かせなくなったなら動かせなくなったで、連絡をくれればいいだけの話である。
 だからこれは何かおかしいと、気付くべきだったかもしれない。

 結局半年近くたってから、牧師が言った。「出資しないとの連絡が入った。もう頭の中が真っ白だ」
 そしてその理由というのが、こうである。「どうやら相手はC兄弟の接待に不満を持ったらしい

 そんな簡単な理由ならもっと早くにわかったでしょう? というのが普通のツッコミである。けれど当時は誰もそういう風に考えられなかった。牧師はこう続けた。
でも自分はC兄弟の接待に問題があったとは考えない。たしかにこの事業も大事だけれど、自分にはC兄弟の方がもっと大事だ。だから私はこの出資よりもC兄弟を守る方を選ぶ
 そしてお涙頂戴の感動ショーが始まる。BGMは「神の家族」。
 事業よりも、家族が大事だよね?
 お金よりも、神の家族が大事だよね?

 という訳でお金は一円も入らなかったけれど、代わりに教会の結束が強まった・・・ともならなかった。後日、その海外企業を紹介してくれた人から、こんな話を聞かされた。
 相手企業は出資を承諾したのに、牧師が提出書類を期限までに出さなかった。だから出資の話は流れてしまった、と。

 出資を受けたら会計報告をちゃんとしないといけないし、当然ながらお金はその福祉事業にしか使えない。自分の自由にならないお金なら面倒だから受け取りたくない、というのが牧師の発想だったと思われる。

 てことは、C兄弟に一方的に責任をなすりつけておいて、「でも許してあげます、愛します」みたいな話にしたってこと? つまり自作自演?
 もう呆れるとうか、絶句というか。

 哀れなのはC兄弟である。一生懸命仕えたのに、あらぬ汚名を着せられ、「感動劇場」に利用され、気の毒と言う他ない。

 神様のために教会に仕えるのは良いことだと思うけれど、単に一生懸命なだけだとこういう目に遭うこともあるから、気をつけましょうって話。

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