「牧師に従っただけ」だとしても、間違いが間違いであることは変わらない、という話

2015年3月1日日曜日

教会生活あれこれ

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 カルトか非カルトかにかかわらず、キリスト教信仰として「それっておかしいでしょ」という事柄がある。
 たとえば「異言」。
 聖書が示す「異言」の特徴は、「語る本人が全く知らない」「練習不要な」「完全に正しい外国語」である。けれどおかしな「異言使用者」のそれは、「先輩の真似から始まり」「徐々に種類が増え」「それでも単音の繰り返しでしかない奇声」となっている。明らかに聖書と矛盾している。

 その手の「おかしさ」は他にも沢山ある。ざっと挙げると「気分次第の預言」とか「超ポジティブシンキングによる癒し」とか「圧倒的臨在という名の集団ヒステリー」とか「架空の敵と架空の格闘をする霊的戦い」とか諸々だけれど、ここでは細かく書かない(書いてるだけでもバカらしくなってくる)。

 とにかく「それっておかしいでしょ」という事柄が蔓延している教会は少なからずある。そしてそういうことを大真面目に信じて行っている信徒も存在する。彼らはそれが純粋なキリスト教信仰だと思っていて、疑う余地がない。
 今回は、そういう彼らについて書いてみたい(それは過去の私自身のことでもある)。

 少し前に頂いたコメントから、複数の方が似たような経験をしていることがわかった。まとめると、次のようなことを言われたことがある、というもの。

たとえ間違っていたとしても、あなたは牧師に従っただけなのだから、何も問われることはない

 信仰的虐待に遭った人たちへの慰めの言葉だと思われる。実は私も同じことを言われたことがある。
 被害から回復する過程において、こういう言葉、すなわち「あなたは悪くない」と言われるのは大切だと思う。被害者はどうしても「自分が悪い」と思いやすいからだ。自分が悪いと思っていると、正しく回復していけない。

 また、確かにこれはその通りに思える。信徒の立場からすれば、牧師から教えられたことを従順に行っただけで、まさか「神の牧師様」が間違っているなんて思わないからだ。
「自分は純粋に従っただけ。まさか騙されていたなんて・・・」という心境かもしれない。
 そこが初めて行った教会なら尚更、疑うなどあり得ないだろう。

 しかし、被害者感情を重々承知した上で書くと、信徒の方に問題がなかったとも言えない。なぜなら聖書を読んで理解に努める責任は個々の信徒にあるのだし、良心の問題としても、また一般常識の問題としても、牧師の言葉を実行するかどうかは事前に吟味しなければならないからだ。

 たとえば(極端な例かもしれないけれど)、地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教という組織について考えてみる。その計画を立案したのは教祖の麻原彰晃だけれど、実行したのは腹心の信者たちだった。では実行犯である信者たちに罪はないかと言うと、そんなことは全然ない。彼らがいくら「正しいと思った」「言われた通りにしただけ」「まさか間違っているなんて」と言っても通用しない。特にサリンで命を落とした方々の遺族からしたら、誰が立案したかとか実行したかとかいう役割分担はほとんど関係ない。

 もちろん、おかしな「異言」を教会内で1万時間語ったところで、外部の誰に迷惑がかかる訳でもない。単に人としてイタイだけだ。そういう意味で害はなく、オウム真理教のような刑事罰を受けることはないだろう。
 けれどそれが神様の前に正しいかどうかは聖書を見れば明らかな訳で、「間違っているとは思わなかった」「牧師に従っただけ」といくら言ったところで、それで正当とされることはない。

 だから「牧師に従っただけだから何も問われない」というのは違うと私は思う。「でもやったのはあんたでしょ」という話になるはずだ。もちろん「騙されていた」のも事実だから、そこには何らかの憐みが施されるはずだと私は信じているけれど。

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