beかdoか、はたまたre-creationか、でも結局堂々巡りな気がする、という話

2015年3月25日水曜日

クリスチャンのパーソナリティの問題

t f B! P L
 少し前に「クリスチャンはbeかdoか」みたいな記事を書いた。
 クリスチャンの価値はその行動で決まるのか、でも行動じゃ測れない部分もあるよね、みたいな内容である。

 すると後日、それに関連した記事をみーちゃんはーちゃん氏も書いておられた(同氏とはSNSでお話させていただいている間柄)。大変光栄である。
 ちなみにリンクさせていただくと、

・日本のクリスチャンがまず"Do"に走るわけ

・Doing Being Becoming Creating そして Recreation
 
 そこで出た話が興味深かった。失礼ながらものすごくザックリまとめると、

「beかdoかってことよりも、becomingとかrecreationではないか」

 つまり存在(be)か行動(do)かでなく、「変容」とも「再創造」ともいう第三の視点(becomingやrecreation)を提示しておられる、ということ。

 なるほどね、と思う。考えてみればbeかdoかも単純な二元論であって、クリスチャンという存在について語るには、不十分なのかもしれない。聖書も「キリストの姿に変えられていく」みたいな表現をしているから、「変容」あるいは「再創造」という概念を支持しているのだと思う。

 それでこの「変容」について少し考えてみると、しかしこれがなかなか難しい。

 私はもともと学術的な話より実際的な話を好む。難しい話も時には必要だろうけれど、どんな高尚な話でも日常生活レベルで活用できないと意味がないと思うからだ。

 それでこの「変容」だけれど、何がどう変わるのか。

 私は教会やクリスチャンの残念なところを散々見てきたので最初から疑い目線で書くけれど、クリスチャン歴が長ければ長いほど、「善人ヅラ」のうまい人が増えていく(と思っている)。笑顔と優しさと親しみやすさ、そして「ハレルヤ」と「アーメン」と「祈ってます」が彼らの武器だ。牧師も同様である。

 逆に言うとそれさえできればクリスチャンとしてオッケーと見られる訳で、たぶんそういうのを「変容」と勘違いする人は多い。

 ある時、ある教会の礼拝に初めて参加した。私は自分がクリスチャンであると明言しなかった。
 礼拝後、そこの若い牧師が話しかけてきた。「ハレルヤ~。主は素晴らしいですね~」
 おいおい、初対面にいきなり専門用語使うなよ、と思いながらも私は笑顔。
 そして簡単な自己紹介。
 ちょっと意地悪したくなって、私はちょっと素性を話してみた。「実は通っていた教会が解散してしまって、どうしたらいいかわからないんです」
「ああ、それは大変でしたね~」と若牧師、まだ笑顔。
 おいおい、こういうのは真顔で聞けよ、と思いながらも私は黙っている。
 牧師も黙ってしまった。しばらく沈黙。
 若牧師、「あなたのために祈ってますね~」
 そして握手して去っていく。
 え、それで終わり?

 ちょっとデフォルメしたけれど、これ実話。
 彼は素晴らしいクリスチャンに「変容」しているように見えたけれど、私には何も伝わってこなかった。伝わったのは「優しいフリ」くらいである。
 それが聖書の言う「変容」なら、要らないと思う。

 また何十年と牧師を続け、教会を大きくしたり、沢山の教会を建てたり、多くの弟子牧師を排出したりした歴戦の「大牧師先生様」が、ひどい罪を犯して表舞台から姿を消すのを見ると、「変容」って何だろうって思ってしまう。

 そういうケースを見ると、結局何十年クリスチャンをやったって、どれだけ変化したように見えたって、根本的には何一つ変わっていないことに気づく。むしろ加齢に伴って人間本来の醜悪さが増しているようにさえ思う。

 まあそれはbeとかdoとかrecreationとかいう以前の問題かもしれないけれど。

 もう一つの考えるべき点は、何をもって「変容」とするかだ。
 人間誰だって時間とともに何かしら変化する訳で、それはクリスチャンとかノンクリスチャンとか関係ない。そしてその変化がキリスト教的「変容」なのか、あるいは人生イロイロの中で生じた「変化」なのか、いったいどうやって判別したらいいのだろうか。

 たとえばチャーチスクールで何年か過ごした子が、「この子はチャーチスクールだからこそここまで成長できたんだね」とか言われることがある。けれどそう言う根拠はどこにあるのだろうか。子供が単に本来の成長過程を通っただけかもしれないし、公立学校でも同様の成長を見せたかもしれない。学校に行かなくても成長したかもしれない。とにかくチャーチスクールだったからと断言することは誰にもできない。それは単なるチャーチスクール賛美でしかない。

 というようなことを考えると、実際的レベルにおいて、あるいは日常生活レベルにおいて、何をもって「変容」とするかはすごく難しい。

 また最後に考えるべき点は、その「変容」が本物だとしても、結局のところ「行動(do)」の部分が問題となるということだ。

 たとえば、ある人がものすごい聖人君主に「変容」したとして、でも結局何もしなかったら、その変容に意味はあったのだろうか。
 あるいは聖人でもなんでもない人、むしろ罪ばかり犯している人が、何かのキッカケですごい善行を(単発で)したとしても、その行動は「変容していない」がゆえに無駄になってしまうのだろうか。

 つまり「変容した人」は必ず正しい行いができて、「変容していない人」は正しい行いなど一つもできない、ということなのだろうか。

 そう考えると、やはり話は「beかdoか」に戻るような気がする。何をしたのか、あるいはしなかったのか、その行動をどう評価すべきなのか、というような話だ。

 なんだか結論のない話だけれど、そんなことを考えてみた。

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