クリスチャンと「特別さ」の関係

2015年2月9日月曜日

キリスト教信仰

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 長崎旅行の帰りの飛行機で激しい頭痛があった。私は以前からそうで、着陸の頃に必ずと言っていいほど頭痛が起こる。どうやら「飛行機頭痛」のようだ。今回も行きも帰りも同じように痛んだ。

 その頭痛で思い出したけれど、以前ある教会で海外研修のようなことをした。研修と言っても海外の親しい教会で、賛美や祈りや礼拝に明け暮れるのである。ただの海外旅行じゃないかと思われるかもしれない。まあそうなのだ。けれど信徒にとっては重要な意味があった。

 その海外の教会は特別なスタイルの礼拝をしていた。それが当時は斬新だった。そしてそのスタイルを取り入れようと躍起になって、教会を挙げて何度も研修に行ったのだ。

 その研修に参加するのは特別なことだった。「導き」のところでも書いたけれど、「行きます」と言って行けるものではない。「祈っていたら〇〇と示されました。だから参加します」というようなプロセス(というか見栄)が必要だった。だからみんなそういう「語られ体験」を持って研修に参加していた。

 それで海外の教会に行って、特別なスタイルの礼拝の中、祈ったり祈られたり、「預言」されたり倒れたり、体中が痺れたり涙が止まらなかったり、というような体験をする。それで「特別さ」を享受する。日本では受けれらない「特別な油注ぎ」を受けて、「特別なクリスチャン」になったという訳だ。

 それは当時はもっともらしく思えた。聖書をちゃんと読んでいなかったというのもある。海外の秘密の場所で秘密の祈りを受け、何か特別な者になる、という古いハリウッド映画みたいな展開に興奮したのもあっただろう。みんな大真面目だった。

 それでその研修旅行の帰り道に、体調を崩す人がチラホラいた。と言っても頭痛とか腹痛とか、一過性のものだった。中には帰りの飛行機でひどい頭痛を起こす人もいた。

 そういう体調不良者を見て牧師はこんなふうに言った。「海外で特別な祈りを受けて帰ってきたから、日本を支配する悪霊たちが嫌がって攻撃しているんだ。けれど敵の攻撃に負けてはならない。祈りと霊の戦いによって勝利せねばならない」

 今思うとそれは私と同じ飛行機頭痛とか、時差ボケとか疲労とか、現地の食事が合わなかったからとか、そういうわかりやすい原因によるものだとわかる。けれど当時は「私たちは特別な者になった。だから特別な次元の戦いに入っているのだ」みたいな勘違いをしていた。

 だいいち特別な油注ぎを受けて特別な者になったなら、悪霊に負けない訳で、そもそも攻撃などされない。それに地域によって油注ぎが変わるという発想は、「礼拝はエルサレムじゃなきゃダメなんですよね」とキリストに尋ねたサマリヤの女と同じだ。見当違いも甚だしい。

 けれどそういう発想の人は今も多く、「再臨が近いからエルサレムに行かないと」みたいなことを本気で言っている。たぶん聖書を読んだことがないのだろう。

 という訳でただの飛行機頭痛を、「あ、海外で特別な祈りを受けちゃったから、特別なクリスチャンになって敵の反感を買っちゃったかな」みたいな壮大で痛々しい妄想として受け止めることがあるので要注意だ。
 そういう人はしばらく教会活動から離れて、自由気ままに旅行でもしてみたらいいと思う。きっと特別な祈りとか礼拝とか関係なく、飛行機に乗る度に一過性の頭痛が起こるのがわかるだろう。そして自分自身が全然特別でない、ただの人であることがよくわかるだろうと思う。

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